少し前に、今年の春に、スペインの最も美しい村巡りの旅で
ミランダ・デル・カスタニャルとモガラスとラ・アルベルカを
電撃訪問した方のブログを転載しましたが、今度は、
1986年に父娘でスペイン旅行をされた方の記事です。
検索で見つけて、転載の了解を快諾いただきましたので
数回にわたる連載の、今回は第4回め、最終回です。
父娘スペインを歩く
17日(日) ラ・アルベルカ
祭も四日目を迎え人出は少し減るかと思われたが、なかなか。今日も闘牛があるからか、村の賑わいはいつもと同じだ。ぼくらは村の様子を確かめに、そして古い家の玄関を描こうと出かける。こう人出が多いと、座り込んで描くのは勇気がいる。しようがなく人ごみを離れて村の学校をスケッチする。途中に小さな教会がいい雰囲気で建っていたのだが、日向は暑いので遠慮した。
描いていると、ぼくらの学校やで・・・と子ども達が寄ってきた。子どもは正直で、疲れなくてよい。礼によって「何歳だ?」「何人兄弟だ?」などと話が始まる。広場に出る途中でまたあの笛と太鼓の祭囃子が聞こえてきた。あの人たちが踊っているのだろう。ここはヨーロッパなんだなあ。ハメルンの笛吹きという話だったか、笛が鳴り出すと足が魔法仕掛けで動き出す・・・そんな話を思い出させる単調だが軽やかなステップで踊りながら行進している。掛け声もカスタネットも相変わらずだ。
こちらの体調も気分も今や全くエスパニョ-ルで、1時ごろになるとお昼にしたくなってホテルへ、そしてその後はシエスタ。5時ごろ起きだして、また夜にかけての馬鹿騒ぎに参加するのだ。今日もまた闘牛。昨日と同じに三頭の堵殺の儀式だったので省略。それが終わると、仮設闘牛場を壊しにかかった。宴の後の物悲しさを感じさせるのは、こちらの見る目がそうだからか、今日の天気が秋の気配を感じさせる肌寒い空気を含んでいる所為だろうか。ああ、これでこの山間の村の祭は終わり、仕事の秋を迎えるのだと妙に得心して広場を後にする。映像でなら赤トンボなり爆竹の残りかすを捉えて秋空にパンするところだ。
この広場。スペインのどこにもある名で、プラサ・マヨールと言ったが、ここをプリントしたTシャツを記念に買って帰ることにした。探し回ったのにどこにも見つけられなくて、着ている人に譲ってもらうわけにもいかず、諦めてド派手にYo・La Albercaと書いたのにする。もう一度村の中をあちこち歩き回ってみる。どの家もゼラニウムやあじさいがベランダを飾っていて美しい。たわわに実をつけたさくらんぼの木も見ていて美しかった。家々の玄関口の古そうな良さそうなのを見つけると、やっぱり描きたくなってくる。石の梁には前にも書いたが1736とか1807とかの数字やJESUS y MARIAとかINRIとかの文字が彫ってある。魅力的だが通りには大人がいっぱいで子どもに覗かれているのとは気分が違うのでスケッチはあきらめる。しかしおかしなもので、描いた後のものなら平気なのだ。今までに二度「見せてくれ。」という人がいて、一度なんかはお礼だからとバルで飲み物を奢ってもらったりした。絵が金になったのは初めてだなどと喜んだことだった。
ホテルへ戻って「いよいよ明日、出発する。バスが出るのは何時?どこから?」と確かめていたら、フロントに偶然バスの運転手がいた。彼は「7時45分(オッチョメノスクアルト)。」と教えてくれてから、「部屋は何号だ?」なんて聞いてくれるので「205だ。」なんて答えてほっと一息。このところの生活からして、朝の早いのだけは不安材料だった。
最後の夕食を奮発して食べた後、風呂に入りゆっくりする。毎日たっぷりお湯が使えるのもぼくの旅としては贅沢なのだが、貧乏旅行ではMが疲れてしまうのでこれで行く。本当は二泊のつもりで来たアルベルカだったけれど、闘牛が見たくて三泊、それで出発しようとしたら、「あなた、明日は日曜日でバスなんかありませんよ。普段でさえ一日一本だけなんです。」と出られなくなって四泊。なんちゅうとこや!そのバスも7時45分といえば、夏時間の所為で夜明け前なのだ。もうすっかりアルベルカーノになってしまって仲良くなったフェルナンドたちとはよく会うし、その度に「オラ、ケタル?」と挨拶するようになって、これはこれでおもしろい経験だった。
アルコールの怖いぼくのことだ。「ビバ、ビーノ!」とは言えないが「ビバ、アルベルカ!」は大声で言っておこう。
18日(月) ラ・アルベルカ-カセレス
目覚ましを一時間前にかけて寝たのに、15分もピーピーピーの中で、どうしても自分の手で止められない目覚ましの夢を見ながら寝ていて、目覚めると7時だった。慌てて顔を洗い、出発の準備をする。7時20分フロントへ行くと暗がりで誰もいない。しまった。夕べのうちに支払っておくべきだったと反省したが、いたしかたない自分で宿代をだいたいのところではじき出す。ざっとした勘定で30000Pぐらいになったので、多めにと思って35000Pを封筒に入れて出ようとしたとき、玄関から人が入ってきた。「バスに乗りたいので早く出たい。」と言うと、「バスはさっき2人を乗せて出た。」と言うではないか。そんなあほな!どうしても今日出たい。サラマンカへ行きたい。」と言っていると、やっとフロントの中から反応があって女性が現れた。ぼくらの窮状を察したこの女性は「わたしたちサラマンカに行くから乗せてあげる。」と助け舟をだしてくれた。そこでやっと落ち着いて支払いに掛かった。四泊7食プラス3朝食、しめて29600Pだった。ぼくのはじき出したのとほほ近い額だ。円を1.25倍と考えて37000円。よい目をさせてもらった割りには少なくて済んだ。
表へ出ると、アルベルカは雨だった。何とも印象的な出発だ。いつもは遥か彼方まで見渡せた山々も、低くたれこめた雲ですっぽり包まれている。ホテルの従業員のカップルに乗せてもらって村を後にする。景色を眺めていると、ここは本当に信州かどこかのように親しみが持てた。緑豊かで水のおいしいところだった。山の木々も種類が豊富で、栗が実を付けているし、松もユーカリもポプラも、林檎・梨はもちろんなんだかよく分からない実のなる落葉樹の大木も、他のスペインにはあまり見られないものがある。それに下草が生えている。シダが茂っているから、ワラビ採りも出来そうで、豊かな水っていい。
サラマンカへの道は、ベハ-ルから入ってきたときの山間のつづれ折りとは違って、かなり開けた田舎国道だった。フィアット124は快調に飛ばす。日本の道路事情とはずいぶん違っていて、車がうんと少ないので速い。エンジンのうなりが車室にこもるのも小気味よい。これで舗装状況がもっと良ければ申し分なし、いっちょう奮発してレンタカーでも・・・と思わせるようなのだが、町へ出るともういけません。右側通行の不自然さ(?)と、慣れないので見にくい信号と、地理不案内がたたって、行きたい所へいけなくなってしまう。現にぼくらをエル・ティエンブロまで送ってくれたルイス達だって来るときもマドリを出違え、帰るときもなかなかマドリに入れなくて1時間もぐるぐる回ったと後の電話で話していたから、よほどなれないと難しいのだろう。
さて、1時間とちょっとで見覚えのあるサラマンカのローマ橋へさしかかる。あカテドラルだなどと言っているうちに国鉄駅に着いた。降りるとき「ありがとう。助かりました。少しだけどガソリン代に・・・。」と渡そうとするのだが頑として受け取ってくれない。「私らは用事で来た。」というわけ。礼だけ言ってさよならした。アルベルカの印象はまた良くなった。
転載以上
出典:oteさんの「父娘スペインを歩く」
ついでに、oteさんのブログの紹介も
スペイン旅行の記事などいろいろあります。
oteさんの記事に写真がなくて、ちょっと寂しかったので
私の撮った写真を17日と18日の境めに載せました。
oteさん父娘が当時泊まったと思われるホテルは、今はもう、
使われていなくて茨が茂り屋根も落ちて廃墟になっています。
隣に新しく建物を建てて、そちらで営業しています。
あと、今日の午後、上の2枚の写真を撮った後、村の
中心に下りて買い物をしていたら、タイムリーにロバさんが
いたので、写真撮りました。
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