ミランダ・デル・カスタニャルとモガラスとラ・アルベルカを
電撃訪問した方のブログを転載しましたが、今度は、
1986年に父娘でスペイン旅行をされた方の記事です。
検索で見つけて、転載の了解を快諾いただきましたので
数回にわたり連載しようと思います。
oteさんのサイトからです。
父娘スペインを歩く
これは私の二度めの旅です。初めて訪れた外国がスペインで、自由の翼を得た私は、六年生になった上の娘Mに言いました。「夏休み、スペイン行かへん。」興味も好奇心も父譲りのMのこと、話はとんとん拍子に進み、二度目のスペイン旅行が実現するはこびとなりました。時は1986年8月2日から27日までの26日間であります。エールフランスの航空券と初日のホテル・バウチャーだけ持って、後は出たとこ勝負の出鱈目旅。初めての旅で知り合ったヒネスにもサグントのキミさんにも『行くよ。』っと声だけかけて、もう泊めてもらう算段をしているあたり、なんとも御気楽なoteさんではあります。
それでは私の旅のメモから第二の旅をお楽しみください。
石とオリーブのなかから緩やかな時の流れと人情を発見する旅
14日(木) サラマンカ-ラ・アルベルカ
今日は11時のバスに乗って出発するのだ。おとといインフォルマシオンで時刻表とバス駅を確かめておいたから、9時に目覚ましを掛けて起きた。ずるずるっと準備に手間取って11時ごろ出発した。
これからは本当に田舎へ行くのだから大きな町にいる間に現金を用意しておこうと、通りの銀行に駆け込んだ。300ドルのチェックをペセタにする。タクシーをひろってバス駅へ着くとベハール行きの出札口は人の列ができているので慌てて並ぶ。無事に切符が買えると、急に空腹を思い出して駅のカフェテラスでパンとチョコラテの朝食を摂る。なぜこんな取り合わせなのかというと、「朝食。」と頼むと「何飲む?」と聞かれてカフェ・テ・チョコラテ・ミルクから選び、「何食べる?」でパン・クロワッサン・菓子パン・ビスケット・チユーロの中から選ぶというわけで、どんな組み合わせにしても大差のないものになってしまうのだ。ここでは「朝食は簡単に!」なのだ。
ゆっくり食べられたわけではないが、5分前に乗り場に行くと、客はもうみんな荷物を積み込んで乗っている。しまった・・・と乗り込むと、もう2人で並んで座れる席は残っていなかった。しかたなく一番前のおじさんに「リブレ?」と確かめMを座らせ、ぼくは後ろの方のオトーサンの隣に座らせてもらう。こんなときに具合がいいのは、始発駅では座席数以上の切符を売らないことだ。必ず座れる。ただし切符を売るのは出発の30分前と決まっているので、ぼくらが駆けつけたときみたいに並ばなければいけない。そのためにいつも混雑していた。予約が可能かどうか知らないが、売り切れると困るだろうなあ。
窓外の景色は例によって麦か牧場だった。相変わらずゆるやかな起伏とコーナーの道をバスは走る。いい気持ちで寝ていると、着いた。ベハール。ここは何の変哲もないところだ。早速タクシーをひろって「まずカンデラリオ、そのあとラ・アルベルカへ行きたい。」と言った。即「OK、行こう。」と出発した。
カンデラリオは名前がいいので選んだ。石組みの地階の上に木組みの二階がのっかっているような古いつくりの村だった。運転手に「10分か15分ぐらい。」とことわって村に入っていった。なるほど古い村だ。そのままどこでも絵になりそうだったが、通りを歩いていると臭いが凄い。牛や山羊の糞尿がそこここに落ちていて、それが凄い臭いの犯人なのだった。これは絵や写真では表せない。歩いていると「りんご通り」というのに出会った。かわいい名だ。そこの八百屋で梨2個、桃2個、メロン1個を買ったら122Pだった。ざっと150円!これは嬉しいねえ。村の入口の古びた教会と広場は安野光雅の本に出ていたような気がするので、大きな看板が邪魔だったけれど、写真に撮る。運転手に約束した時間に急かされてもいて、スケッチするだけの時間が持てなかった。(Manzanaにはりんごの他に街区、ブロックの意味もあるそうです。19年も経ってから分かりました。)
さて次はラ・アルベルカ。ここは天本英世の「スペイン巡礼」を読んで、絶対行こうと決めていた。山の中の寒村に繰り広げられる夏祭りは、どうしても外せないこの旅の目玉なのだった。運転手に「どのくらいかかる?」と聞くと「だいたい1時間ぐらいだろう。」という答。景色など楽しみながら出発する。車は少ないのですれ違うのはたまにしかない。追い越しとなると滅多にないほどなのだが、路肩のはっきりしない田舎道をすっ飛んでいくので、乗せてもらうのは怖い。
車はだんだん山奥へ入っていく。小さな村がときおり現われては消えていく。その度にアルベルカ村かと思うが違うらしい。1時間以上のドライブの後、めざすアルベルカ村に着く。運転手がオテル「ラス・バトゥエカス」を尋ねて、行き着いた。降りるとき「ありがとう。コーヒーでも一緒にどう?」と聞いたが断わられてしまった。4500Pの料金を払うと、握手を求めてきて「よい旅を。」と言った。あのご機嫌ぶりだとかなりよい仕事になったのではないだろうか。
この村でたった一つのホテルは二つ星だが、とても良いところだ。水が冷たくておいしい。たっぷり湯が出るので、さっそく身支度を整えていると、祭のふれ太鼓が下の通りを行く。こちらの気分もいくぶん乗ってきて、村の方へ誘い出される。小さい村だから迷うことなく村の広場に行き着いた。広場のテーブルでコーラを飲みながら一軒のバルをスケッチ。広場にはもうステージが組まれていて、夜店の屋台もいくつか準備を始めている。小さい広場でゆるやかな傾斜がついているのだが、その低い方に舞台はしつらえてある。ああ、天本さんの本の写真はこの角度から撮ってあるのだと納得する。
そこらじゅうをヒネスに教えてもらった古い家の造りを確かめながら歩いていると、カンデラリオと同じ臭いがする。家畜のいるすえた臭い。路地を歩いている鶏・・・うん、これは30年前の日本だ・・・なんて嬉しがって歩いていると、道端の人々の胡散臭そうな視線にどぎまぎする。それだけではない。突然、家の中から豚が数頭飛び出してびっくりしたり、ここはまぎれもなく山間僻地のアルベルカ村だった。
ホテルに帰って、「祭の予定表」がないかどうか確かめたら、「プラサ・マヨールの村役場のドアに貼ってあるだろう。」と言う。へえ、そうだったの、あの小さな広場もマヨール(大きな)広場というのか、村一番ってことだね。それからここを発つときのバスの便を尋ねると「ベハールへは無い。サラマンカには日に一本ある。」という返事で、今いるところがどんなに山奥なのか思い知らされた。
夜用に身支度を整え、オラリオ(時間割り)を確かめるために広場へ出る。村の中をあても無く歩き回ると、写真を撮っている人や絵を描いている人によく出会うから、やはり今は帰省客や観光客で膨れ上がっているのだろう。家々の造りはかなり古く「1738」とか「AVEMARIA」とか「IHS」等の文字が玄関の石の梁に彫り込んである。入口は二つで、一つのドアはすぐ階段になっていて上へ上がる人間様用、もう一つは観音開きの大きいドアで上だけでも開くようになっていたり、下の方に犬猫用のくり抜きがあったりしてこれは家畜用らしい。ドアは別々でも中は一つだから、ドアを開けたら馬と「こんにちは。」になるかも知れない。中を覗き込むまでもなくすごい臭いがするし、時折りカランカランとカウベルの音も聞こえてくる。道路の糞はまだ生々しいのがあったりして、アタンシオン!だ。村の中のみちはたいてい石畳だったから、ツルリっなんてなったらほんと危ない。
広場へ戻ると、今夜のステージをつとめるH-70というロックグループがステージセッティングの真っ最中だった。これから始まる祭がどんなものなのか皆目見当もつかないが、見物人で膨れ上がった広場の熱気と村人の昂揚は否応なくこちらに伝わってきてドキドキしてくる。広場の大音量のスピーカーを使って、まず神父さんが役場の二階のバルコンから、神をたたえ村をたたえる祝福の言葉を言う。そして、村長さんが長々とメッセージを読み上げる。まだ若そうだが、立派な顎鬚と落ち着いた物腰の彼がスピーチを終えると盛大な拍手が起こった。その後、民族衣装の爺さんがワインの入った革袋片手に舞台の上で、祭の始まりを宣言した。この人がワイン飲みのみ「ビーバ、アルベルカ!ビーバ、ビーノ(ワイン)」などと言うのに大観衆も唱和する。「ビーバ!」「アルベルカ!!」と応える。
ラ・アルベルカは祭りに入った。
広場に大きな象(の縫いぐるみをまとったワゴン車)が乗り入れて、アラブ風に着飾った男たちが練り歩くのにつられるように子どもたちが寄って来る。「象」の上のお姫様もアラブ風で、子どもたちにキャンディを投げる。子どもたちの争奪戦に負けてはいられない。ぼくも「こっちこっち。」と声をかけて投げてもらった。子どもたちの身のこなしの素早いこと。やっとの思いで手にした一つをMにプレゼント。
演芸会と言っていいのだろうか、この後、男2人女1人が舞台に上がって、語りと民謡を聴かせる。手には革袋のビーノ、そのうちの1人は伴奏で、この地方独特の太鼓と笛を両手で器用に操る。他の2人は唄い、踊る。カスタネットの踊り、鍋のようなものを楽器にしたり、テーブルを調子をつけて叩いたり、マリオネットにタップを踏ませたりするのだが、そのどれも巧い。プロなんだろう。
そしてその後、演奏しながら舞台を下りてその足で、広場に面したバルを一軒ずつ門付けして歩くと、中の人もステップを踏んで踊りだす。単調だがカスタネットとタップのようなステップはフラメンコを連想させる。エルティエンブロでヒネスがアナのことを自慢して「セビジャーナスの踊り手。」と言ったとき、「それはジプシーのフラメンコのようなものか?」と聞いたら、「違う!全然違う。」と語気を強くして否定したから、へえそうかあと思ったことがあったけど、ぼくの中のスペイン舞踊はみなフラメンコに見えてしまうのだからしかたがない。
ここに来て初めて分かったのだが、フラメンコにはセビジャーナスや民舞にない哀愁と精神の自由がある。土臭く物悲しい旋律は、ジプシー達がその昔、東の方からやって来たことを頷かせるのに充分だし、こぶしや泣き節を感じてしまうのは、我々日本人の感性と奥のところで繋がっているからなのだろう。フラメンコは基本的に即興の感情表出なのだと思う。ここで演られているアルベルカーナやマドルガーダは単調で表現の自由度の少ないもので、スクエアダンスという風に理解できる。
こうして真夜中近く、11時を半分ほど過ぎた頃、ロックバンドH-70が狭い広場に不釣合いな大音量でコーヒールンバを演りだした。これがこのバンドのおはこなのか手馴れていて巧い。広場の人たちは早速8ビートにのり出した。変わり身が早いというか、のりやすい性質の人たちだ。そしてこの点で、ぼくも同じなのだ。体が勝手に動く・・・しかし、今日はカボチャになるまでにホテルへ帰る。
転載以上
出典:oteさんの「父娘スペインを歩く」
ついでに、oteさんのブログの紹介も
スペイン旅行の記事などいろいろあります。
この記事を検索することになったきっかけについては、説明を
始めると、とても長くなるので、また別の機会に。。。
oteさんの記事の転載も続きますし、どうして検索をしたのか、
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実は、この記事の中にヒントがあるんですよ。
勘のよい方なら、分かるかもしれません。
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