martes, 12 de septiembre de 2017

父娘スペインを歩く~その4~1986年の夏にラ・アルベルカ滞在した方の旅行記

oteさんのサイトからです、その1その2その3の続きです。

少し前に、今年の春に、スペインの最も美しい村巡りの旅で
ミランダ・デル・カスタニャルモガラスラ・アルベルカ
電撃訪問した方のブログを転載しましたが、今度は、
1986年に父娘でスペイン旅行をされた方の記事です。
検索で見つけて、転載の了解を快諾いただきましたので
数回にわたる連載の、今回は第4回め、最終回です。


父娘スペインを歩く

17日(日) ラ・アルベルカ
 祭も四日目を迎え人出は少し減るかと思われたが、なかなか。今日も闘牛があるからか、村の賑わいはいつもと同じだ。ぼくらは村の様子を確かめに、そして古い家の玄関を描こうと出かける。こう人出が多いと、座り込んで描くのは勇気がいる。しようがなく人ごみを離れて村の学校をスケッチする。途中に小さな教会がいい雰囲気で建っていたのだが、日向は暑いので遠慮した。

 描いていると、ぼくらの学校やで・・・と子ども達が寄ってきた。子どもは正直で、疲れなくてよい。礼によって「何歳だ?」「何人兄弟だ?」などと話が始まる。広場に出る途中でまたあの笛と太鼓の祭囃子が聞こえてきた。あの人たちが踊っているのだろう。ここはヨーロッパなんだなあ。ハメルンの笛吹きという話だったか、笛が鳴り出すと足が魔法仕掛けで動き出す・・・そんな話を思い出させる単調だが軽やかなステップで踊りながら行進している。掛け声もカスタネットも相変わらずだ。

 こちらの体調も気分も今や全くエスパニョ-ルで、1時ごろになるとお昼にしたくなってホテルへ、そしてその後はシエスタ。5時ごろ起きだして、また夜にかけての馬鹿騒ぎに参加するのだ。今日もまた闘牛。昨日と同じに三頭の堵殺の儀式だったので省略。それが終わると、仮設闘牛場を壊しにかかった。宴の後の物悲しさを感じさせるのは、こちらの見る目がそうだからか、今日の天気が秋の気配を感じさせる肌寒い空気を含んでいる所為だろうか。ああ、これでこの山間の村の祭は終わり、仕事の秋を迎えるのだと妙に得心して広場を後にする。映像でなら赤トンボなり爆竹の残りかすを捉えて秋空にパンするところだ。

 この広場。スペインのどこにもある名で、プラサ・マヨールと言ったが、ここをプリントしたTシャツを記念に買って帰ることにした。探し回ったのにどこにも見つけられなくて、着ている人に譲ってもらうわけにもいかず、諦めてド派手にYo・La Albercaと書いたのにする。もう一度村の中をあちこち歩き回ってみる。どの家もゼラニウムやあじさいがベランダを飾っていて美しい。たわわに実をつけたさくらんぼの木も見ていて美しかった。家々の玄関口の古そうな良さそうなのを見つけると、やっぱり描きたくなってくる。石の梁には前にも書いたが1736とか1807とかの数字やJESUS y MARIAとかINRIとかの文字が彫ってある。魅力的だが通りには大人がいっぱいで子どもに覗かれているのとは気分が違うのでスケッチはあきらめる。しかしおかしなもので、描いた後のものなら平気なのだ。今までに二度「見せてくれ。」という人がいて、一度なんかはお礼だからとバルで飲み物を奢ってもらったりした。絵が金になったのは初めてだなどと喜んだことだった。

 ホテルへ戻って「いよいよ明日、出発する。バスが出るのは何時?どこから?」と確かめていたら、フロントに偶然バスの運転手がいた。彼は「7時45分(オッチョメノスクアルト)。」と教えてくれてから、「部屋は何号だ?」なんて聞いてくれるので「205だ。」なんて答えてほっと一息。このところの生活からして、朝の早いのだけは不安材料だった。

 最後の夕食を奮発して食べた後、風呂に入りゆっくりする。毎日たっぷりお湯が使えるのもぼくの旅としては贅沢なのだが、貧乏旅行ではMが疲れてしまうのでこれで行く。本当は二泊のつもりで来たアルベルカだったけれど、闘牛が見たくて三泊、それで出発しようとしたら、「あなた、明日は日曜日でバスなんかありませんよ。普段でさえ一日一本だけなんです。」と出られなくなって四泊。なんちゅうとこや!そのバスも7時45分といえば、夏時間の所為で夜明け前なのだ。もうすっかりアルベルカーノになってしまって仲良くなったフェルナンドたちとはよく会うし、その度に「オラ、ケタル?」と挨拶するようになって、これはこれでおもしろい経験だった。
 アルコールの怖いぼくのことだ。「ビバ、ビーノ!」とは言えないが「ビバ、アルベルカ!」は大声で言っておこう。



 18日(月) ラ・アルベルカ-カセレス
 目覚ましを一時間前にかけて寝たのに、15分もピーピーピーの中で、どうしても自分の手で止められない目覚ましの夢を見ながら寝ていて、目覚めると7時だった。慌てて顔を洗い、出発の準備をする。7時20分フロントへ行くと暗がりで誰もいない。しまった。夕べのうちに支払っておくべきだったと反省したが、いたしかたない自分で宿代をだいたいのところではじき出す。ざっとした勘定で30000Pぐらいになったので、多めにと思って35000Pを封筒に入れて出ようとしたとき、玄関から人が入ってきた。「バスに乗りたいので早く出たい。」と言うと、「バスはさっき2人を乗せて出た。」と言うではないか。そんなあほな!どうしても今日出たい。サラマンカへ行きたい。」と言っていると、やっとフロントの中から反応があって女性が現れた。ぼくらの窮状を察したこの女性は「わたしたちサラマンカに行くから乗せてあげる。」と助け舟をだしてくれた。そこでやっと落ち着いて支払いに掛かった。四泊7食プラス3朝食、しめて29600Pだった。ぼくのはじき出したのとほほ近い額だ。円を1.25倍と考えて37000円。よい目をさせてもらった割りには少なくて済んだ。

 表へ出ると、アルベルカは雨だった。何とも印象的な出発だ。いつもは遥か彼方まで見渡せた山々も、低くたれこめた雲ですっぽり包まれている。ホテルの従業員のカップルに乗せてもらって村を後にする。景色を眺めていると、ここは本当に信州かどこかのように親しみが持てた。緑豊かで水のおいしいところだった。山の木々も種類が豊富で、栗が実を付けているし、松もユーカリもポプラも、林檎・梨はもちろんなんだかよく分からない実のなる落葉樹の大木も、他のスペインにはあまり見られないものがある。それに下草が生えている。シダが茂っているから、ワラビ採りも出来そうで、豊かな水っていい。

 サラマンカへの道は、ベハ-ルから入ってきたときの山間のつづれ折りとは違って、かなり開けた田舎国道だった。フィアット124は快調に飛ばす。日本の道路事情とはずいぶん違っていて、車がうんと少ないので速い。エンジンのうなりが車室にこもるのも小気味よい。これで舗装状況がもっと良ければ申し分なし、いっちょう奮発してレンタカーでも・・・と思わせるようなのだが、町へ出るともういけません。右側通行の不自然さ(?)と、慣れないので見にくい信号と、地理不案内がたたって、行きたい所へいけなくなってしまう。現にぼくらをエル・ティエンブロまで送ってくれたルイス達だって来るときもマドリを出違え、帰るときもなかなかマドリに入れなくて1時間もぐるぐる回ったと後の電話で話していたから、よほどなれないと難しいのだろう。

 さて、1時間とちょっとで見覚えのあるサラマンカのローマ橋へさしかかる。あカテドラルだなどと言っているうちに国鉄駅に着いた。降りるとき「ありがとう。助かりました。少しだけどガソリン代に・・・。」と渡そうとするのだが頑として受け取ってくれない。「私らは用事で来た。」というわけ。礼だけ言ってさよならした。アルベルカの印象はまた良くなった。

転載以上

出典:oteさんの「父娘スペインを歩く」

ついでに、oteさんのブログの紹介も
スペイン旅行の記事などいろいろあります。

oteさんの記事に写真がなくて、ちょっと寂しかったので
私の撮った写真を17日と18日の境めに載せました。
oteさん父娘が当時泊まったと思われるホテルは、今はもう、
使われていなくて茨が茂り屋根も落ちて廃墟になっています。
隣に新しく建物を建てて、そちらで営業しています。

あと、今日の午後、上の2枚の写真を撮った後、村の
中心に下りて買い物をしていたら、タイムリーにロバさんが
いたので、写真撮りました。




 ∞ ∞ ∞




シエラ・デ・フランシア ∞ サラマンカ ∞ Sierra de Francia ∞ Salamanca
についての、日本語情報サイト
Blog
facebook

e-mail
日本語でのお問い合わせ
hiromiamigos@gmail.com




lunes, 11 de septiembre de 2017

父娘スペインを歩く~その3~1986年の夏にラ・アルベルカ滞在した方の旅行記


oteさんのサイトからです、その1その2の続きです。

少し前に、今年の春に、スペインの最も美しい村巡りの旅で
ミランダ・デル・カスタニャルモガラスラ・アルベルカ
電撃訪問した方のブログを転載しましたが、今度は、
1986年に父娘でスペイン旅行をされた方の記事です。
検索で見つけて、転載の了解を快諾いただきましたので
数回にわたる連載の、今回は第3回めです。



父娘スペインを歩く



16日(土) ラ・アルベルカ
 遅い朝食を、今日は何があるのだろうと話しながら、ホテルのレストランで食べる。6時から闘牛がある。それを見るために滞在を一日延ばしたのだ。その他は何があるのだろうと役場で写してきた時間表を見るが、よく分からない。もうどうでもいいや。村の散歩でもしようと決めて、また村へ出る。

 一軒ずつ玄関やベランダ、ゼラニウムの咲き加減を確かめながら、スケッチの場所をさがして歩いていると広場へ出た。ここでは闘牛のための準備が進んでいた。どこかのバルの中から笛と太鼓の音、踊りのカスタネットの音もする。なにかちょっと違っている。なにかおかしいと音のする方へ誘われていくと、教会へ出た。教会の前まで来ると、小さいがまた一つ舞台が設えてあって、ここのは幕の用意までしてある。ああそうだ、これも天本さんの本で読んだ。劇だ劇が始まるのだ。舞台の前で待っていると、次第に見物人が増えて人々でひしめくようになって、劇が始まった。

 牧人が出てきて村人が出てくる。やりとりがあってそのうちに場面が変わり、黒ずくめの衣装で悪魔が出てきて村人たちを脅かす。舞台は悪魔の世界になって七人のかわいい小悪魔も出てきてのし歩き観客を威嚇する。悪魔が呪いの長いセリフを言っていると、賛美歌のような唄が遠く切れ切れに聞こえてきて、彼の怒りは頂点に達し舞台にセットされた火薬に点火。物凄い大音響と黒煙で舞台も悪魔も何もかも見えなくなるし、観客は耳をつんざく爆音と煙から逃げ惑う。その後マリア(だと思う)が七人のかわいい天使を伴って現われ、剣をとると悪魔はやっつけられて退散、劇は終わる。多分いつも通りの定型劇なんだろうけど、みんなはその「いつも」を楽しんでいる。

 爆発音の所為で、変になった耳のまま、「なんて馬鹿馬鹿しい劇やろ。せやけど、この馬鹿馬鹿しさが面白い。」と2人で喜び合った。

 広場へ取って返すと、カスタネットの音。何だろうと思っていると、昨夜のプロの踊り手たちと伴奏者が、今日は地べたをステージにしてやっている。一踊りするとまた踊りながら道を行き、少し広くなっているところに止まってそこでまた一踊りという具合に村の中を練り歩く。村人はビーノだハムだお菓子だと振る舞う。一息入れるとまた踊りながら跳ねながら移動する。何とも凄い、身体がバネで出来ているかのような人たちだ。子どもたちと一緒にぼくらもついて行く。

 小さな村の「聖母被昇天祭(アスンシオン)」の興奮は、こうして闘牛の頃には最高潮に達するのだ。ここの祭は長期に渡るが昼食の2時ごろから6時ころまで重要な行事はない。多分スペインの祭はみんなこうなんだろう。昼寝のためである。当然ぼくらも昼食とシエスタにホテルへ帰る。

las bailaoras, y toro a la plaza mayor

 6時ごろ広場に出かけると、丸太と鉄の杭で締め切られた広場は即席の闘牛場になっていて、既にみんな思い思いの所に陣取っている。日が当たって暑い舞台の上もいっぱいの人だし、広場に面した窓もバルコニーももぐりこむ余地のないほど人でひしめいている。日向で、マドリの大闘牛場でなら一番安そうなところにぼくらも場所をとる。そこしか空いていないのだからしようがない。闘牛場といっても俄作りで、広場を囲む家々の二階のベランダを支えている柱に縄をかけたり、敷石をめくって柵用の柱を立てたりして作ってある。毎年のこととあって手馴れていて、頑丈にできているのは相手が猛牛だからだろう。

 ぼくらの待機しているすぐ横の扉が開けられて、牛が飛び出してきた。牛は小ぶりだった。闘牛の始まりだ。ここの闘牛はマドリなどの大闘牛場とは様子が違っている。場内には血の気の多い男たちがたくさん入ったままなので、定まった手順を踏むわけではない。初めっから混乱していて、参加するのが楽しみらしいのだ。男たちが牛をからかったりかわしたり、スリルを楽しんでいる。牛が小さいということもあるだろうが、誰もがみんな牛と面と向かっている間だけはこの場の主役なのだ。赤やピンクの布(ムレ-タ)を持った者もいるのだが、闘牛の作法に沿っているわけではなく勝手に持ち込んでいるらしい。

 見物席は今やぱんぱんに膨らんでものすごい人だ。ぼくらは人にもまれているうちに中の様子が見えなくなったので、場所を移すことにする。大人しくしていたのでは主役になれない国なのだ。ここでは自分を主張しよう。ぐるっと回って反対側に行くと、日陰の席に僅かの隙間を見つけて突き進み石のベンチの上に立つことが出来た。おお前の人の肩越しに見えた見えた。牛の背中にはもう銛が刺さっていた。マドリでならピカドールだバンディリェーリョだと、マタドールの前にも着飾った人たちが牛と一対一の勝負をするのだが、」なにせそこは田舎の闘牛だ。呼ばれているマタドールは1人しかいないので、村の若い衆が斜め後ろからさっと近寄って一本の銛を打つ。牛は大暴れをしてまた追っかけっこが忙しくなる。逃げ場を失った男たちが逃げ込む所は柵の外なのだが、逃げる時用の綱がいくつも吊革のようにぶら下がっていて、みんなそれに殺到する。内側にぐるっとひと巻きにした人たちが、わっとよじ登るやらロープにつかまるやらするのは滑稽で、外で見ている分には面白い。勢い余って外側に折り重なって落ちてきたりもするかと思えば、牛があまり動かないと見れば外から蹴ったり小突いたりして挑発する。ああかわいそう・・・と思うのはこのたくさんの人たちの中でぼくたちだけだろうか。大人も子どもも男も女も、今日は一つのカタルシスにむかって駆け上っていく感じがする。



 そうして牛との追っかけっこが続いて、マタドール(一応ピンクのムレ-タと刺殺用の剣を持っている)が牛と対峙してフィナーレを迎える。みんなが口笛と歓声ではやし立てる中で儀式が進む。一刺しで牛を殺すのは余程手馴れていても難しいらしく、このときも何度かの失敗の末に1mほどの剣が肩から腹に向かって突き立てられた。・・・が、居合わせた全ての観衆の視線の中で牛はまだ立っていた。命が消えようとする最後の瞬間に牛の瞳は何を見ていたのだろう。雄雄しい牛は前脚からゆっくり崩れていった。

 二頭目は、更に小さめの牛が場内に駆け込んできて始まった。これにはたくさんの男たちばかりでなく活きのいい少年たちも混じっていて、牛との追っかけっこを楽しむのだった。真剣に逃げる、かわすを繰り広げる。小さくても角は鋭いし、引っ掛けられでもしたら、怪我ぐらいでは済まないだろう。この牛は追っかけっこが終わると、後ろから角と首筋に抱き付いてみんなして押さえ込み、堵殺の要領で殺した。

 さて三頭目は本格的に大物で、こればかりは追っかけっこに参加する男たちも少し減った。減りはしたが牛の動きが読め自分の運動神経に自信のある男たちは参加する。そして同じように銛を幾本か打ち込んでから、マタドールが一対一で最後の儀式をする。これで三頭が殺され、広場の水呑場で洗われてどこかに連れ去られると本日のイベントは終わりだ。

 殺された牛たちは台車に無造作に重ねて積まれ、そこに子どもたちが群がり乗り込んだ。トラクターがそれをひいて行く。牛からはまだ血が流れている。その中の誰かが牛の血を自分の頬になすり付け、何か叫んでいる。点々としたたり落ちている血のように生々しい死を死んでいく牛に何の感傷も持たず、さながら凱旋将軍のように意気揚揚と進む彼らは一体どんな神経の持ち主なんだろう。

 闘牛が終わると、同じ広場でまた踊りだ。マドゥルガーダ、アルベルカ-ナ、そして11時からはお定まりH-70の出番で広場はディスコティカになる。ぼくらも今夜は幾分興奮気味でステップを踏んだり、滅茶苦茶ダンスをしたりしてみたが12時。カボチャになって帰る。

転載以上

出典:oteさんの「父娘スペインを歩く」

ついでに、oteさんのブログの紹介も
スペイン旅行の記事などいろいろあります。


村のマヨール広場に2日間だけ出現する闘牛場。
初めて見たときは、わたしもびっくりでした。
観客も闘牛場内に入って、ちゃちゃ入れたりするですから。
小さな村だからこそ、の闘牛だな、と思いました。

参考記事
8/16・17午後6時 闘牛
8/17 子供用牛追い
8/16 牛追いと闘牛


シエラ・デ・フランシアの村の中には、常設の
闘牛場がある村もいくつかあります。
サン・マルティン・デル・カスタニャル、セケロス。

ミランダ・デル・カスタニャルなど。




 ∞ ∞ ∞




シエラ・デ・フランシア ∞ サラマンカ ∞ Sierra de Francia ∞ Salamanca
についての、日本語情報サイト
Blog
facebook

e-mail
日本語でのお問い合わせ
hiromiamigos@gmail.com






domingo, 10 de septiembre de 2017

父娘スペインを歩く~その2~1986年の夏にラ・アルベルカ滞在した方の旅行記

少し前に、今年の春に、スペインの最も美しい村巡りの旅で
ミランダ・デル・カスタニャルモガラスラ・アルベルカ
電撃訪問した方のブログを転載しましたが、今度は、
1986年に父娘でスペイン旅行をされた方の記事です。
検索で見つけて、転載の了解を快諾いただきましたので
数回にわたる連載の、今回は第2回めです。

oteさんのサイトからです、その1の続きです。


父娘スペインを歩く 

15日(金) ラ・アルベルカ

 今日はカメラもカセットも使わない日と決めて、自分の目と耳で祭を脳髄にプリントすることにする。朝食をとってゆっくりテラスで一休み。昨夜のホテルでの夕食といい、今の朝食といい、ウエイターにサービスされていい気分になっている。この小さな村に一つしかないホテルだから、えらい金持ちごっこをしているような気になる。他にはフォンダやペンション等の安宿があるだけだから、二つ星でもここの客は少しとりすました感じを受けるのだ。

 時間表によると、今日はミサがある。村の教会へみんなが集まって、ミサが始まった。いつもにない旗の行列などが珍しい。立って見ていると、すぐ前のおばさんに席を作ってもらって座ることが出来た。ミサの後、旗や聖像などがしずしずと担ぎ出され広場の上座に据え付けられると、パンやビーノを供える行事、アルベルカーナという踊りを奉納する行事と祭礼が進行する。輪になったり、二列になったり、隊形を変えながら踊る。手には棒やカスタネットで、みな精一杯着飾った民族衣装だ。この後、子どもたちの踊りは同じような衣装で、花のアーチをくぐったり回ったり、何色かのテープを持ってメイポールの周りで踊るメーデーのダンスのようだった。(これは絵葉書になっていた。)

 村の中を歩いていると、そこらじゅうでカメラやビデオを持った観光客が通っているのに出会う。だいたい30分もあれば隅から隅まで歩けるような小さな村にこの人数だから、アルベルカの祭の宣伝はかなり行き届いているように見える。フランス語も飛び交う。日本人は女の子の二人組を初日に見かけたが、その後は全然見なくなった。この小さい村の行事だから、いれば何度も出くわすだろうに、もうどこかへ行ってしまったのだろう。東洋人はぼくら二人だけになった。ときおり小さな子に「チーノ。」とやられるが「ノ、ハポネセス。」と応える。



 歩き回っていると見覚えのあるところへ出た。ああここは昨日豚が飛び出してきた家だ。あのときはびっくりした。中を掃除するためかどうか、とつぜん五・六頭の豚に出てこられて、道端の石の上に避難したのだ。今度はその石の上に陣取って豚の出てきた家をスケッチする。描いていると男の子が数人覗きに来た。アビラのときみたいに遠巻きに、「オラ。」と言うと、寄って来て口々に喋りだす。「それはあんたの子か?」「名前は?」「歳は?」「子どもは何人いる?」「飛行機で来たのか?」・・・いろいろ聞くので描いていられない。「そうだ。北回りでね。」・・・いちいち答えながら逆に、「君ら、名前は?大きくなったら日本に来たい?ぼくは学校で教えてる。」などと話してやる。何人兄弟か聞いてみると、4人3人は予想していたが「ひとり。」というのもいて、これは国際的な現象なのかもしれないと思った。8歳だというホセが、半分みんなにからかわれながら「こいつタバコ吸いよるねん。」と言われている。「悪い子だ!」と言ってやったら、一生懸命否定しているところがかわいい。酒も煙草もオープンな国だから、ほんとに低年齢と思える子が煙草をふかしていたりする。まるで戦後の闇市(知っているわけではありません。念のため)のように、大人に混じって仕事をする子どもの指に短くなった煙草・・・ビーノは言うに及ばずだ。

 しかし今は祭。子どもたちの格好はその所為もあってか、汚くはない。みんなそれぞれの色をした髪と瞳で、Tシャツや半ズボンを素敵に着ているのをみると、洋服の長い歴史と西洋人のスマートさは日本人にはないものだと少しねたましく思った。話し終わって帰るとき、ぼくのスケッチブックにそれぞれの名前をサインしてくれた。フェルナンド、リカルド、ホセ・ガルシア・オヨス、ホセ、ヘスス・ハビエル、みんなさようなら。

 7時からは民謡大会だ。唄や演奏かと思ったら、踊りだそうだ。レオンやリオハといったところから来ているプロの踊り手たちは疲れ知らずに踊る。男女が半々で10人ほどの若い集団だが、よく訓練されていて面白い。来ている服は民族衣装というよりは、それをアレンジしたステージ衣装のようだった。輪になる-固まる-二列に-繋がる-ねじれる-スクエアダンス風と様々に踊り方を変えて面白い。伴奏はたった一人のおじさんによる笛と太鼓なのだが、このおじさん、腰に太鼓をつけて片手にバチ、もう片方には笛を持っている。それにかぶさるように踊り手のカスタネットが重なると、まるで獅子舞の囃子のようにも聞こえる。この踊りは終始よく似た単調なステップなのだが、ぼくが驚くのは持続する時間の長さだった。跳びはね続けて疲れているはずなのに、表情はいつでも笑っている。溌剌として疲れを知らない踊りは、角館の「わらび座」を連想させる。

 その後、ラ・アルベルカの人たちの踊りが始まると、声援も違ってきた。おじいちゃんもおばあちゃんも、おとなりの○○ちゃんも着飾って舞台に上がって踊る。踊りそのものがうまいというより、スカートに手をかけたり、足でめくるまねをしたり、卑猥な腰つきをしたりして客を沸かせている、どこの国でも見られる景色。

 11時、またH-70が出てくる前にぼくらはホテルへ夕食に帰る。

転載以上

出典:oteさんの「父娘スペインを歩く」

ついでに、oteさんのブログの紹介も
スペイン旅行の記事などいろいろあります。


写真を撮らない、記憶に焼き付けるということで、
当時の写真がないのが残念ですけれど、お祭りの
雰囲気とか、なんとなく目の前に浮かんできます。


参考記事
家族がいたんですね。。。
今は、数件、ロバや牛を1階で飼っているのを知っていますが、
イベリコ豚は村の中の家ではなく外側の栗の林の中の数ヶ所で、
放し飼いをしています。
羊、山羊、馬、にわとり、ガチョウ、孔雀なども飼われて


 ∞ ∞ ∞




シエラ・デ・フランシア ∞ サラマンカ ∞ Sierra de Francia ∞ Salamanca
についての、日本語情報サイト
Blog
facebook

e-mail
日本語でのお問い合わせ
hiromiamigos@gmail.com

sábado, 9 de septiembre de 2017

父娘スペインを歩く~その1~1986年の夏にラ・アルベルカ滞在した方の旅行記

少し前に、今年の春に、スペインの最も美しい村巡りの旅で
ミランダ・デル・カスタニャルモガラスラ・アルベルカ
電撃訪問した方のブログを転載しましたが、今度は、
1986年に父娘でスペイン旅行をされた方の記事です。
検索で見つけて、転載の了解を快諾いただきましたので
数回にわたり連載しようと思います。

oteさんのサイトからです。


父娘スペインを歩く 

これは私の二度めの旅です。初めて訪れた外国がスペインで、自由の翼を得た私は、六年生になった上の娘Mに言いました。「夏休み、スペイン行かへん。」興味も好奇心も父譲りのMのこと、話はとんとん拍子に進み、二度目のスペイン旅行が実現するはこびとなりました。時は1986年8月2日から27日までの26日間であります。エールフランスの航空券と初日のホテル・バウチャーだけ持って、後は出たとこ勝負の出鱈目旅。初めての旅で知り合ったヒネスにもサグントのキミさんにも『行くよ。』っと声だけかけて、もう泊めてもらう算段をしているあたり、なんとも御気楽なoteさんではあります。
それでは私の旅のメモから第二の旅をお楽しみください。


石とオリーブのなかから緩やかな時の流れと人情を発見する旅

14日(木) サラマンカ-ラ・アルベルカ
 今日は11時のバスに乗って出発するのだ。おとといインフォルマシオンで時刻表とバス駅を確かめておいたから、9時に目覚ましを掛けて起きた。ずるずるっと準備に手間取って11時ごろ出発した。
 これからは本当に田舎へ行くのだから大きな町にいる間に現金を用意しておこうと、通りの銀行に駆け込んだ。300ドルのチェックをペセタにする。タクシーをひろってバス駅へ着くとベハール行きの出札口は人の列ができているので慌てて並ぶ。無事に切符が買えると、急に空腹を思い出して駅のカフェテラスでパンとチョコラテの朝食を摂る。なぜこんな取り合わせなのかというと、「朝食。」と頼むと「何飲む?」と聞かれてカフェ・テ・チョコラテ・ミルクから選び、「何食べる?」でパン・クロワッサン・菓子パン・ビスケット・チユーロの中から選ぶというわけで、どんな組み合わせにしても大差のないものになってしまうのだ。ここでは「朝食は簡単に!」なのだ。

 ゆっくり食べられたわけではないが、5分前に乗り場に行くと、客はもうみんな荷物を積み込んで乗っている。しまった・・・と乗り込むと、もう2人で並んで座れる席は残っていなかった。しかたなく一番前のおじさんに「リブレ?」と確かめMを座らせ、ぼくは後ろの方のオトーサンの隣に座らせてもらう。こんなときに具合がいいのは、始発駅では座席数以上の切符を売らないことだ。必ず座れる。ただし切符を売るのは出発の30分前と決まっているので、ぼくらが駆けつけたときみたいに並ばなければいけない。そのためにいつも混雑していた。予約が可能かどうか知らないが、売り切れると困るだろうなあ。
 窓外の景色は例によって麦か牧場だった。相変わらずゆるやかな起伏とコーナーの道をバスは走る。いい気持ちで寝ていると、着いた。ベハール。ここは何の変哲もないところだ。早速タクシーをひろって「まずカンデラリオ、そのあとラ・アルベルカへ行きたい。」と言った。即「OK、行こう。」と出発した。

 カンデラリオは名前がいいので選んだ。石組みの地階の上に木組みの二階がのっかっているような古いつくりの村だった。運転手に「10分か15分ぐらい。」とことわって村に入っていった。なるほど古い村だ。そのままどこでも絵になりそうだったが、通りを歩いていると臭いが凄い。牛や山羊の糞尿がそこここに落ちていて、それが凄い臭いの犯人なのだった。これは絵や写真では表せない。歩いていると「りんご通り」というのに出会った。かわいい名だ。そこの八百屋で梨2個、桃2個、メロン1個を買ったら122Pだった。ざっと150円!これは嬉しいねえ。村の入口の古びた教会と広場は安野光雅の本に出ていたような気がするので、大きな看板が邪魔だったけれど、写真に撮る。運転手に約束した時間に急かされてもいて、スケッチするだけの時間が持てなかった。(Manzanaにはりんごの他に街区、ブロックの意味もあるそうです。19年も経ってから分かりました。)


 さて次はラ・アルベルカ。ここは天本英世の「スペイン巡礼」を読んで、絶対行こうと決めていた。山の中の寒村に繰り広げられる夏祭りは、どうしても外せないこの旅の目玉なのだった。運転手に「どのくらいかかる?」と聞くと「だいたい1時間ぐらいだろう。」という答。景色など楽しみながら出発する。車は少ないのですれ違うのはたまにしかない。追い越しとなると滅多にないほどなのだが、路肩のはっきりしない田舎道をすっ飛んでいくので、乗せてもらうのは怖い。
 車はだんだん山奥へ入っていく。小さな村がときおり現われては消えていく。その度にアルベルカ村かと思うが違うらしい。1時間以上のドライブの後、めざすアルベルカ村に着く。運転手がオテル「ラス・バトゥエカス」を尋ねて、行き着いた。降りるとき「ありがとう。コーヒーでも一緒にどう?」と聞いたが断わられてしまった。4500Pの料金を払うと、握手を求めてきて「よい旅を。」と言った。あのご機嫌ぶりだとかなりよい仕事になったのではないだろうか。

 この村でたった一つのホテルは二つ星だが、とても良いところだ。水が冷たくておいしい。たっぷり湯が出るので、さっそく身支度を整えていると、祭のふれ太鼓が下の通りを行く。こちらの気分もいくぶん乗ってきて、村の方へ誘い出される。小さい村だから迷うことなく村の広場に行き着いた。広場のテーブルでコーラを飲みながら一軒のバルをスケッチ。広場にはもうステージが組まれていて、夜店の屋台もいくつか準備を始めている。小さい広場でゆるやかな傾斜がついているのだが、その低い方に舞台はしつらえてある。ああ、天本さんの本の写真はこの角度から撮ってあるのだと納得する。
 そこらじゅうをヒネスに教えてもらった古い家の造りを確かめながら歩いていると、カンデラリオと同じ臭いがする。家畜のいるすえた臭い。路地を歩いている鶏・・・うん、これは30年前の日本だ・・・なんて嬉しがって歩いていると、道端の人々の胡散臭そうな視線にどぎまぎする。それだけではない。突然、家の中から豚が数頭飛び出してびっくりしたり、ここはまぎれもなく山間僻地のアルベルカ村だった。

 ホテルに帰って、「祭の予定表」がないかどうか確かめたら、「プラサ・マヨールの村役場のドアに貼ってあるだろう。」と言う。へえ、そうだったの、あの小さな広場もマヨール(大きな)広場というのか、村一番ってことだね。それからここを発つときのバスの便を尋ねると「ベハールへは無い。サラマンカには日に一本ある。」という返事で、今いるところがどんなに山奥なのか思い知らされた。


 夜用に身支度を整え、オラリオ(時間割り)を確かめるために広場へ出る。村の中をあても無く歩き回ると、写真を撮っている人や絵を描いている人によく出会うから、やはり今は帰省客や観光客で膨れ上がっているのだろう。家々の造りはかなり古く「1738」とか「AVEMARIA」とか「IHS」等の文字が玄関の石の梁に彫り込んである。入口は二つで、一つのドアはすぐ階段になっていて上へ上がる人間様用、もう一つは観音開きの大きいドアで上だけでも開くようになっていたり、下の方に犬猫用のくり抜きがあったりしてこれは家畜用らしい。ドアは別々でも中は一つだから、ドアを開けたら馬と「こんにちは。」になるかも知れない。中を覗き込むまでもなくすごい臭いがするし、時折りカランカランとカウベルの音も聞こえてくる。道路の糞はまだ生々しいのがあったりして、アタンシオン!だ。村の中のみちはたいてい石畳だったから、ツルリっなんてなったらほんと危ない。
 広場へ戻ると、今夜のステージをつとめるH-70というロックグループがステージセッティングの真っ最中だった。これから始まる祭がどんなものなのか皆目見当もつかないが、見物人で膨れ上がった広場の熱気と村人の昂揚は否応なくこちらに伝わってきてドキドキしてくる。広場の大音量のスピーカーを使って、まず神父さんが役場の二階のバルコンから、神をたたえ村をたたえる祝福の言葉を言う。そして、村長さんが長々とメッセージを読み上げる。まだ若そうだが、立派な顎鬚と落ち着いた物腰の彼がスピーチを終えると盛大な拍手が起こった。その後、民族衣装の爺さんがワインの入った革袋片手に舞台の上で、祭の始まりを宣言した。この人がワイン飲みのみ「ビーバ、アルベルカ!ビーバ、ビーノ(ワイン)」などと言うのに大観衆も唱和する。「ビーバ!」「アルベルカ!!」と応える。

 ラ・アルベルカは祭りに入った。
 広場に大きな象(の縫いぐるみをまとったワゴン車)が乗り入れて、アラブ風に着飾った男たちが練り歩くのにつられるように子どもたちが寄って来る。「象」の上のお姫様もアラブ風で、子どもたちにキャンディを投げる。子どもたちの争奪戦に負けてはいられない。ぼくも「こっちこっち。」と声をかけて投げてもらった。子どもたちの身のこなしの素早いこと。やっとの思いで手にした一つをMにプレゼント。
 演芸会と言っていいのだろうか、この後、男2人女1人が舞台に上がって、語りと民謡を聴かせる。手には革袋のビーノ、そのうちの1人は伴奏で、この地方独特の太鼓と笛を両手で器用に操る。他の2人は唄い、踊る。カスタネットの踊り、鍋のようなものを楽器にしたり、テーブルを調子をつけて叩いたり、マリオネットにタップを踏ませたりするのだが、そのどれも巧い。プロなんだろう。
 そしてその後、演奏しながら舞台を下りてその足で、広場に面したバルを一軒ずつ門付けして歩くと、中の人もステップを踏んで踊りだす。単調だがカスタネットとタップのようなステップはフラメンコを連想させる。エルティエンブロでヒネスがアナのことを自慢して「セビジャーナスの踊り手。」と言ったとき、「それはジプシーのフラメンコのようなものか?」と聞いたら、「違う!全然違う。」と語気を強くして否定したから、へえそうかあと思ったことがあったけど、ぼくの中のスペイン舞踊はみなフラメンコに見えてしまうのだからしかたがない。

 ここに来て初めて分かったのだが、フラメンコにはセビジャーナスや民舞にない哀愁と精神の自由がある。土臭く物悲しい旋律は、ジプシー達がその昔、東の方からやって来たことを頷かせるのに充分だし、こぶしや泣き節を感じてしまうのは、我々日本人の感性と奥のところで繋がっているからなのだろう。フラメンコは基本的に即興の感情表出なのだと思う。ここで演られているアルベルカーナやマドルガーダは単調で表現の自由度の少ないもので、スクエアダンスという風に理解できる。
 こうして真夜中近く、11時を半分ほど過ぎた頃、ロックバンドH-70が狭い広場に不釣合いな大音量でコーヒールンバを演りだした。これがこのバンドのおはこなのか手馴れていて巧い。広場の人たちは早速8ビートにのり出した。変わり身が早いというか、のりやすい性質の人たちだ。そしてこの点で、ぼくも同じなのだ。体が勝手に動く・・・しかし、今日はカボチャになるまでにホテルへ帰る。

転載以上

出典:oteさんの「父娘スペインを歩く」

ついでに、oteさんのブログの紹介も
スペイン旅行の記事などいろいろあります。


この記事を検索することになったきっかけについては、説明を
始めると、とても長くなるので、また別の機会に。。。
oteさんの記事の転載も続きますし、どうして検索をしたのか、
そこに興味があって早く知りたい方は、メールでどうぞ♪
そっと、耳打ちいたします。
実は、この記事の中にヒントがあるんですよ。
勘のよい方なら、分かるかもしれません。


 ∞ ∞ ∞




シエラ・デ・フランシア ∞ サラマンカ ∞ Sierra de Francia ∞ Salamanca
についての、日本語情報サイト
Blog
facebook

e-mail
日本語でのお問い合わせ
hiromiamigos@gmail.com

viernes, 8 de septiembre de 2017

ミランダ・デ・カスタニャルのお祭りが地方観光資産に

サラマンカの地元ネット新聞、SalamancaRTValDiaにお祭り関連で
新たな動きがあったという報道を見つけたので、翻訳します。

カスティージャ・イ・レオン州が
ミランダ・デル・カスタニャルの
守護聖人のお祭りの夜の灯火の行列
(Procesion de los Candiles)を
地方観光資産として認定



エンカルハ・トリハ村長は、映画監督ジョナサン・セニスアルの
お祭り開始宣言の前にグッドニュースを伝えました。

ミランダ・デル・カスタニャルは、伝統的な夜の灯火の行列が
地方観光資産のお祭りとして登録されたことを祝うために
2つの目的があります。カスティージャ・イ・レオン州からの
通達は、お祭りが始まるちょうどその日、9月7日にあり、今年は
村人たちにとって、特別なお祭りとなることでしょう。

カスティージャ・イ・レオン州の観光局は、観光資産の認定に
関しての申請を審査する機関で、ミランダ・デル・カスタニャルの
灯火の行列または灯火の夜として知られている行事を、数々の
必要条件を満たしたとして、地方観光資産として登録しました。
この決定に関して、スペイン演劇の黄金時代の遺物の登場人物で
ある"グラシオソ(道化)"や、伝統の木にまだ実をつけていないけれど、
将来の世代へと続くという果実を象徴する女の子の名前を持つ
"モシーナ・デル・ラモ(花束の女の子)"が出てくるという
オリジナル性を評価されました。また、村の特徴ある美しさと、
各家のバルコニーや窓に吊るされるたくさんのオイルランプと
街灯の光で照らされる村の風景の美しさも認められました。

村長である、エンカルナシオン・トリハ女史は、映画監督の
ジョナサン・セニスアル氏のお祭り開始宣言で公式に村祭りが
始まる数分前に村人たちへこの良いニュースを伝えました。
セニスアル監督の先祖はこの村の人で、「幸せなことに、
わたしは、子どものころは子ども目線でこの村が大好きだったし、
今大人になって、城壁に守られた宝である伝統や歴史を知り
さらにもっと楽しんでいるという、2つの方法でミランダに暮らす
ことができている」と感情を込めてスピーチしました。
村人たちの大きな拍手の後、庵から教会までのビルヘン・デ・ラ・
クエスタ(斜面の聖母)の像を移動させる伝統的行事が始まりました。



出典:Articulo y fotos: "La Junta declara la Procesión de los Candiles Fiesta de Interés Turístico Regional"


その他の記事には、写真ギャラリーがあるので、リンクします
この記事にお祭りの様子の動画がありました。


アルベルカの8月15日の聖母被昇天のお祭りとはまた違う趣きで、素敵です。
13世紀初めに作られたお城や城壁に囲まれた村の中で、中世そのままの
ような伝統衣装を着た人と、普通の服を着た人が混ざっていて、どの時代に
いるのか分からなくなってしまうような、不思議な空間を体験できることでしょう。


サラマンカ県が2015年に制作したお祭りのプロモーションビデオ



映画監督ジョナサン・セニスアル氏の映画についての記事はこちらです。
「映画の中のシエラ・デ・フランシア」

 ∞ ∞ ∞




シエラ・デ・フランシア ∞ サラマンカ ∞ Sierra de Francia ∞ Salamanca
についての、日本語情報サイト
Blog
facebook

e-mail
日本語でのお問い合わせ
hiromiamigos@gmail.com

miércoles, 6 de septiembre de 2017

テレビ番組で紹介されたシエラ・デ・フランシア

先日、RTV(スペイン国営放送)の番組収録がソトセラーノの村で
あったという話を聞いていたのですが、その放映が4日にありました。

RTVのホームページで動画がアップされているので、こちらでシェアします。

とはいえ、動画の埋め込みをどうやったらいいのか
分からないので、リンクを入れます。

Aqui la Tierra - De fiesta Sotoserrano
アキ・ラ・ティエラ(ここが大地)ソトセラーのお祭りから


上の画像クリックでも、動画のあるページへ行くことができます。

9月4日の番組全体のアーカイブはこちら
8分40秒くらいから12分1秒くらいまでがソトセラーノです。


ついでに、他のシエラ・デ・フランシアの村を話題にしている、
アキ・ラ・ティエラの番組の動画も。。。

ミンランダ・デ・カスタニャル - ブドウの収穫、ボデーガス(地下貯蔵庫・熟成庫)

ラ・アルベルカ - 村のあちこちを散策、生ハム屋、ケーキ屋、レストランなど

ビジャヌエバ・デル・コンデ - 3つの嘘の村、ビルヘン・デ・カンデラのお祭り

モガラス - リモン・セラーノってどんな料理?、レモンを採るところから




 ∞ ∞ ∞




シエラ・デ・フランシア ∞ サラマンカ ∞ Sierra de Francia ∞ Salamanca
についての、日本語情報サイト
Blog
facebook

e-mail
日本語でのお問い合わせ
hiromiamigos@gmail.com


lunes, 4 de septiembre de 2017

観光サイクリングコース

シエラ・デ・フランシアの大自然の中で、サイクリングを楽しみませんか?
気持ちいいですよ!


シエラ・デ・フランシア観光案内(Turismo de Sierra de Francia)のサイトに
サイクリングコースの記事があるので、そこから翻訳します。

観光サイクリングコース (Rutas Cicloturismo)

観光サイクリング


シエラ・デ・フランシアの地勢の特徴は、スポーツという面からだけでなく、自然環境の中での発見や歴史や文化遺産などからもこの地域をサイクリングするとパラダイスにいるような気持ちになることでしょう。
シエラ・デ・フランシア・ワインルートには、徒歩でも自転車でも大自然を満喫するたくさんの可能性があります。この地域を存分に楽しんでいただけるよう、サイクリングルートをいくつかご用意しています。

サイクリング、自然、文化と歴史が、シエラ・デ・フランシアと
エントレシエラスを縦横に走るそれぞれのルートの中で結びつき
あっています。

"アラゴン川"サイクリングコース
コースの出発地点は、ソトセラーノのマヨール広場で、村役場の
右側の道を通り抜け、さらに右に曲がると村から出て、サイクリング
コースの進行サインのある農道へと続きます。湧き水を通り過ぎた後、
二股で左の道へ入ります。
このアスファルトの道は、山の斜面へと続き、果樹園や畑の間をぬう
ように続く傾斜のあるカーブ道が、十字路につきあたったら、ほぼ
360度折り返して戻るような土の道に入ります。

土の道はオリーブ畑に入り込むように見えますが、左側へとフランシア川の
川岸に向かって下りるような指標があり、さらに右に曲がります。
この部分は川に平行していて小石に覆われています。小さな橋まで行ったら
左に曲がり、ベガ・デ・フランシア・キャンプ場のところまで行ったら、
またアスファルトの道になり、ソトセラーノ-ベハール街道まで行きます。

石の橋を渡り、街道の十字路で、ラグニージャ方面の道に入り、今度は、
クエルポ・デ・オンブレ川にかかる橋をまた渡り、渡ったら、右に曲がり
アラゴン川に平行の土の道を走ります。約8キロほど平坦だったりアップ
ダウンしたりしながら走りながら、右に曲がる標識に注意しましょう。
アラゴン川沿いの、細い草の道へ入っていくと、古い用水路があります。
かつて、そこで、このあたりでたくさん飼われていた羊や山羊の皮をはぎ
なめしたりしていました。

その後、ソトセラーノ-コリア街道までいき、右に曲がり橋を渡ります。
200mくらいでもう一度右に曲がり、アラゴン川に沿って5キロほど
平行にさかのぼっていき、GR10の一部である土の道へと左にまがると
ソトセラーノの村まで山の斜面のような道を登っていきます。


エントレシエラスBTTセンター
エントレシエラスBTTセンターは、クリストバル、ロス・サントス、
フエンテロブレ・デ・サルバティエラ、サン・エステバン・デ・ラ・
シエラ、サンチバニェス・デ・ラ・シエラ、バルデフエンテス・デ・
シエラの6つの村からなっています。

全長183kmのサイクリングコースは、ベハル山脈とフランシア山脈の
生物圏保護地区の中のエントレシエラス地域を走破し、風景や道の
多様性を提供しています。

9つのコースには全て、標識が立ち、どんなレベルのサイクリング愛好者に
お楽しみいただけます。


訳注)BTT=バイク・トド・テレノ(全土壌適応自転車)=マウンテンバイクのスペイン語表記のこと




ウォーキングとはまた違う、サイクリングの楽しさ!
歩くよりも、長い距離を移動できるのが、いいですよね!
走ったり、休憩したり、マイペースで景色を楽しみましょう!

 ∞ ∞ ∞




シエラ・デ・フランシア ∞ サラマンカ ∞ Sierra de Francia ∞ Salamanca
についての、日本語情報サイト
Blog
facebook

e-mail
日本語でのお問い合わせ
hiromiamigos@gmail.com




sábado, 2 de septiembre de 2017

スペインの最も美しい村連合のメンバーの3つの村

スペインには、数年前から「スペインの最も美しい村連合」が
できて、美しい小さな村の紹介をしています。
シエラ・デ・フランシアの村々の中では、ラ・アルベルカ、モガラス、
ミランダ・デル・カスタニャルがメンバーになっています。

先日、フランスの最も美しい村連合のメンバーの村を全部訪問した方が
現在スペインの最も美しい村連合の全村訪問に挑戦されているいうことで
シエラ・デ・フランシアの3つの記事をシェアしました。

スペインの最も美しい村巡り~Miranda del Castañar (ミランダ・デル・カスタニャル)
スペインの最も美しい村巡り~Mogarraz(モガラス)
スペインの最も美しい村巡り~La Alberca(ラ・アルベルカ)

今回は、デスティーノ・カスティージャ・イ・レオン(Destino C y L)の
サイトの記事のうち、シエラ・デ・フランシアの3つの村の部分だけを
翻訳します。

カスティージャ・イ・レオン州の
17の「スペインで最も美しい村」

「スペインの最も美しい村連合」という文化遺産の保存やプロモーションに
従事する協会は、17の最も美しい村をカスティージャ・イ・レオン州から
選びました。スペイン全土では、現在のところ57の村が選ばれています。
今までにも何度か美しい村ついては紹介していますが、この17の美しい
村をまとめて、紹介します。

(こちらでは、シエラ・デ・フランシアの3つの村だけです・・・)

3.モガラス(Mogarraz - Salamanca)
シエラ・デ・フランシアのどの村も、本当はこのリストの中に入ることができるでしょう。どの村もとても美しいですから。モガラスはカンデラリオやアルベルカの村に比べると、観光客は少ないですが、毎年、増えてきています。建物の前面に飾られている肖像画が人気です。
この村は、伝統的製法で作られたイベリコ豚の腸詰や生ハム製品でよく知られています。イベリコ製品のミュージアムがありますので訪問すると興味深いでしょう。この地域の他の村々同様に、毎年、一頭の血統100%のイベリコ豚が村の中で放し飼いにされていて、みんなで餌をあげ、聖マルティン(訳者注:と書いてありますが、聖アントンの間違いではないかと・・・)のお祭りで、くじ引きをします。


4. ラ・アルベルカ(La Alberca - Salamanca)
おそらく、シエラ・デ・フランシアの中で一番有名な村でしょう。実際美しく、古い建物の保存状況もよく、新しく建築された建物も周囲との調和しています。マヨール広場は、サラマンカ県の中で最も写真に撮られる場所の一つで、いつもゼラニウムなどの色とりどりのたくさんの花に飾られたバルコニーが美しいです。
サラマンカのこの地域は、地中海性気候で過ごしやすく、カスティージャ・イ・レオン州の中でちょっと特徴的な食文化があります。たとえば、山のサラダ(Ensalada Serrana)は、カリカリにあげた豚肉を組み合わせたものです。ウォーキングやハイキングが愛好者には、興味深いルートがいくつかあり楽しむことができます。


15. ミランダ・デル・カスタニャル(Miranda del Castanar - Salamanca)
サラマンカの、シエラ・デ・フランシア地域に最近、スペインで最も美しい村連合に加盟しました。レコンキスタ時代に起源がある他の村々同様に、かなり保存状態のよい城砦があります。この山の村の四角いマヨール広場は、スペインで一番古いといわれています。
ミランダ・デル・カスタニャルから、シエラ・デ・フランシアにあるラス・バトゥエカス渓谷自然公園が広がります。エル・モリーノは、古い水車小屋を再建したレストランで、この地域の美味しい料理を楽しむことができます。


今回翻訳はしませんが、その他、14の村々の名前だけ。。。
1と2がサラマンカの南部地域で、どちらもシエラ・デ・フランシアから車で1時間前後の距離です。

1. カンデラリオ Candelario (Salamanca)
2. シウダ・ロドリゴ Ciudad Rodrigo (Salamanca)
5. ペニャルバ・デ・サンティアゴ Peñalba de Santiago (León)
6. セプルベダ Sepúlveda (Segovia)
7. アイジョン Ayllón (Sepúlveda)
8. ペドラサ Pedraza (Segovia)
9. マデルエロ Maderuelo (Segovia)
10. ウルエニャ Urueña (Valladolid)
11. フリアス Frías (Burgos)
12. メディナセリ Medinaceli (Soria)
13. コバルビアス Covarrubias (Burgos)
14. プエブラ・デ・サナブリア Puebla de Sanabria (Zamora)
16. ジャングアス Yanguas (Soria)
17.カレルエガ  Caleruega (Burgos)


最後に、17つの村の地図を




出典: Los 17 Pueblos de Castilla y León “Más bonitos de España”(Articulo y fotos)





 ∞ ∞ ∞




シエラ・デ・フランシア ∞ サラマンカ ∞ Sierra de Francia ∞ Salamanca
についての、日本語情報サイト
Blog
facebook

e-mail
日本語でのお問い合わせ
hiromiamigos@gmail.com