シエラ・デ・フランシア ∞ サラマンカ ∞ Sierra de Francia ∞ Salamanca
イベリコ生ハム、ワイン、オリーブオイル、蜂蜜、果物、ナッツ類と、海産物以外の地中海料理のおいしい食材が楽しめる地域です。 大自然に囲まれ心と体のリフレッシュに最適です。アグロ・ツーリズム、エコ・ツーリズムなどお好みに合わせてご相談ください。
domingo, 11 de octubre de 2020
jueves, 13 de febrero de 2020
『「スペインの最も美しい村」全踏破の旅』写真集のご案内
「フランスの最も美しい村」、「イタリアの最も美しい村」、「ベルギーの最も美しい村」を全踏破し、写真集を出版されている吉村和敏氏が、今回は「スペインの最も美しい村」を全踏破した写真集が今月末に発売されます。
吉村さんのブログから転載します。
「スペインの最も美しい村」全踏破の旅
2月28日発売 2,800+税(講談社)
オールカラー256ページ
Amazonはこちら
https://amzn.to/31udCZC
「最も美しい村」シリーズ第4弾
79村(2019年11月現在)を全踏破。写真家吉村和敏が、取材期間5年をかけて訪ね歩いた知られざるスペイン。雄大な自然と激動の歴史を静かに伝える美しい村々を活写する!
スペインの最も美しい村協会公認
オールカラー256ページ
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「最も美しい村」シリーズ第4弾
79村(2019年11月現在)を全踏破。写真家吉村和敏が、取材期間5年をかけて訪ね歩いた知られざるスペイン。雄大な自然と激動の歴史を静かに伝える美しい村々を活写する!
スペインの最も美しい村協会公認
シエラ・デ・フランシアの美しい村、アルベルカ、モガラス、ミランダ・デ・カスタニャルはもちろん入ってますー!!!
初回のスペイン取材が2016年夏で、アルベルカで宿泊されたホテルが
初回のスペイン取材が2016年夏で、アルベルカで宿泊されたホテルが
友達のホテルだったので、お話する機会があり、スペインの最も美しい村協会の
スペイン語の公式ガイドブックを日本語に訳してデータ提供する協力をしました。
その後の2回の取材の際も、アルベルカに立ち寄ってくれていろいろお話をしました。
アマゾンで予約受付中ですので、ぜひぜひ~♪
アマゾンで予約受付中ですので、ぜひぜひ~♪
吉村さんのブログから。
スペインの最も美しい村の本作り 2019年12月 4日 (水)
美しい村の本、制作中です 2020年1月 8日 (水)
時間に追われています 2020年1月29日 (水)
∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞
大自然に囲まれ、歴史保存地区に指定されている
アルベルカや周辺の村で、コンサートや展示会、
ワークショップなど開催してみたいなーとか
東洋医学治療、ヒーリング、リーディングなどを
スペインの方にしてあげたいなーという方が
いらっしゃいましたら、ぜひご連絡ください。
アレンジさせていただきます!
また、ウォーキングやトレッキング、高地トレーニング、
サイクリング、スケッチなども楽しむことができます。
大自然に囲まれて、
心身ともにリフレッシュし
美味しいものを食べ、
エネルギーチャージし、
外国で腕試しの体験ができ、
一石四鳥~♪
お問い合わせは、メッセンジャーで♪
https://m.me/laalbercajp
ラ・アルベルカ(La Alberca) facebookページ
シエラ・デ・フランシア ∞ サラマンカ ∞ Sierra de Francia ∞ Salamanca
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シエラ・デ・フランシア ∞ サラマンカ ∞ Sierra de Francia ∞ Salamanca
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domingo, 12 de agosto de 2018
沖縄とケルトの音楽のコンサート♪
夏祭りの時期がやってきました!
シエラ・デ・フランシアの各村は、お祭りで
にぎわっています。
先日、8月9日、アルベルカで、初の日本人歌手の
コンサートがありました。
お祭りのプログラムには組み込むことができません
でしたけれど、アルベルカだけでなく、近隣の村から、
そしてサラマンカから、100人以上の人が集まり、
大盛況に終わりました!
「ラ・アルベルカ」のブログの記事から転載します。
沖縄とケルトの音楽のコンサート♪」
大自然に囲まれて、
元記事
「沖縄とケルトの音楽のコンサート♪」
シエラ・デ・フランシアの各村は、お祭りで
にぎわっています。
先日、8月9日、アルベルカで、初の日本人歌手の
コンサートがありました。
お祭りのプログラムには組み込むことができません
でしたけれど、アルベルカだけでなく、近隣の村から、
そしてサラマンカから、100人以上の人が集まり、
大盛況に終わりました!
「ラ・アルベルカ」のブログの記事から転載します。
沖縄とケルトの音楽のコンサート♪」
8月9日のアルベルカで初めて、日本人ミュージシャンの
100人以上の観客が陽子さんの声と演奏を楽しみました。
CDを購入してくださった方もいらっしゃいました。
陽子さんは沖縄の歌4曲を三線を弾きながらソロで、
その他6曲を地元ミュージシャンとのセッションしました。
ガリシアの歌を3曲、アイルランドの歌を2曲、
ジブリ映画「千と千尋のいつも何度でも」の6曲。
バイオリン、ギター、ボックスパーカッション、コントラバス、
キーボードが交代で陽子さんの歌に合わせました。
陽子さん、地元のミージシャン、音響で協力してくれたカテハ・テアトロ、
お庭を提供してくれたホテル・アンティーグアス・エラスの方々、
そして楽しいひと時を共有してくださった観客の方々、
皆さん、どうもありがとうございました。
写真がビデオのスクリーンショットからなので、ボケボケですみません。。。
奇しくも8月9日は、6日の広島に続いて、長崎の原爆投下の日でした。
そして、国際先住民族デーでもあります。
たまたま、今年はホテルのお庭には、先住民へのオマージュを
テーマにした彫刻が展示されています。
陽子さんが歌った、沖縄もケルトも先住民族の子孫たちです。
世界の全ての人々が、それぞれ平和で幸せに生きられますようにという
祈りを込めたコンサートとなりました。
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大自然に囲まれ、歴史保存地区に指定されている
アルベルカや周辺の村で、コンサートや展示会、
ワークショップなど開催してみたいなーとか
東洋医学治療、ヒーリング、リーディングなどを
スペインの方にしてあげたいなーという方が
いらっしゃいましたら、ぜひご連絡ください。
アレンジさせていただきます!
また、ウォーキングやトレッキング、高地トレーニング、
サイクリング、スケッチなども楽しむことができます。
大自然に囲まれて、
心身ともにリフレッシュし
美味しいものを食べ、
エネルギーチャージし、
外国で腕試しの体験ができ、
一石四鳥~♪
お問い合わせは、メッセンジャーで♪
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元記事
「沖縄とケルトの音楽のコンサート♪」
Etiquetas:
Celta,
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martes, 12 de septiembre de 2017
父娘スペインを歩く~その4~1986年の夏にラ・アルベルカ滞在した方の旅行記
oteさんのサイトからです、その1、その2、その3の続きです。
少し前に、今年の春に、スペインの最も美しい村巡りの旅で
ミランダ・デル・カスタニャルとモガラスとラ・アルベルカを
電撃訪問した方のブログを転載しましたが、今度は、
1986年に父娘でスペイン旅行をされた方の記事です。
検索で見つけて、転載の了解を快諾いただきましたので
数回にわたる連載の、今回は第4回め、最終回です。
父娘スペインを歩く
17日(日) ラ・アルベルカ
祭も四日目を迎え人出は少し減るかと思われたが、なかなか。今日も闘牛があるからか、村の賑わいはいつもと同じだ。ぼくらは村の様子を確かめに、そして古い家の玄関を描こうと出かける。こう人出が多いと、座り込んで描くのは勇気がいる。しようがなく人ごみを離れて村の学校をスケッチする。途中に小さな教会がいい雰囲気で建っていたのだが、日向は暑いので遠慮した。
描いていると、ぼくらの学校やで・・・と子ども達が寄ってきた。子どもは正直で、疲れなくてよい。礼によって「何歳だ?」「何人兄弟だ?」などと話が始まる。広場に出る途中でまたあの笛と太鼓の祭囃子が聞こえてきた。あの人たちが踊っているのだろう。ここはヨーロッパなんだなあ。ハメルンの笛吹きという話だったか、笛が鳴り出すと足が魔法仕掛けで動き出す・・・そんな話を思い出させる単調だが軽やかなステップで踊りながら行進している。掛け声もカスタネットも相変わらずだ。
こちらの体調も気分も今や全くエスパニョ-ルで、1時ごろになるとお昼にしたくなってホテルへ、そしてその後はシエスタ。5時ごろ起きだして、また夜にかけての馬鹿騒ぎに参加するのだ。今日もまた闘牛。昨日と同じに三頭の堵殺の儀式だったので省略。それが終わると、仮設闘牛場を壊しにかかった。宴の後の物悲しさを感じさせるのは、こちらの見る目がそうだからか、今日の天気が秋の気配を感じさせる肌寒い空気を含んでいる所為だろうか。ああ、これでこの山間の村の祭は終わり、仕事の秋を迎えるのだと妙に得心して広場を後にする。映像でなら赤トンボなり爆竹の残りかすを捉えて秋空にパンするところだ。
この広場。スペインのどこにもある名で、プラサ・マヨールと言ったが、ここをプリントしたTシャツを記念に買って帰ることにした。探し回ったのにどこにも見つけられなくて、着ている人に譲ってもらうわけにもいかず、諦めてド派手にYo・La Albercaと書いたのにする。もう一度村の中をあちこち歩き回ってみる。どの家もゼラニウムやあじさいがベランダを飾っていて美しい。たわわに実をつけたさくらんぼの木も見ていて美しかった。家々の玄関口の古そうな良さそうなのを見つけると、やっぱり描きたくなってくる。石の梁には前にも書いたが1736とか1807とかの数字やJESUS y MARIAとかINRIとかの文字が彫ってある。魅力的だが通りには大人がいっぱいで子どもに覗かれているのとは気分が違うのでスケッチはあきらめる。しかしおかしなもので、描いた後のものなら平気なのだ。今までに二度「見せてくれ。」という人がいて、一度なんかはお礼だからとバルで飲み物を奢ってもらったりした。絵が金になったのは初めてだなどと喜んだことだった。
ホテルへ戻って「いよいよ明日、出発する。バスが出るのは何時?どこから?」と確かめていたら、フロントに偶然バスの運転手がいた。彼は「7時45分(オッチョメノスクアルト)。」と教えてくれてから、「部屋は何号だ?」なんて聞いてくれるので「205だ。」なんて答えてほっと一息。このところの生活からして、朝の早いのだけは不安材料だった。
最後の夕食を奮発して食べた後、風呂に入りゆっくりする。毎日たっぷりお湯が使えるのもぼくの旅としては贅沢なのだが、貧乏旅行ではMが疲れてしまうのでこれで行く。本当は二泊のつもりで来たアルベルカだったけれど、闘牛が見たくて三泊、それで出発しようとしたら、「あなた、明日は日曜日でバスなんかありませんよ。普段でさえ一日一本だけなんです。」と出られなくなって四泊。なんちゅうとこや!そのバスも7時45分といえば、夏時間の所為で夜明け前なのだ。もうすっかりアルベルカーノになってしまって仲良くなったフェルナンドたちとはよく会うし、その度に「オラ、ケタル?」と挨拶するようになって、これはこれでおもしろい経験だった。
アルコールの怖いぼくのことだ。「ビバ、ビーノ!」とは言えないが「ビバ、アルベルカ!」は大声で言っておこう。
18日(月) ラ・アルベルカ-カセレス
目覚ましを一時間前にかけて寝たのに、15分もピーピーピーの中で、どうしても自分の手で止められない目覚ましの夢を見ながら寝ていて、目覚めると7時だった。慌てて顔を洗い、出発の準備をする。7時20分フロントへ行くと暗がりで誰もいない。しまった。夕べのうちに支払っておくべきだったと反省したが、いたしかたない自分で宿代をだいたいのところではじき出す。ざっとした勘定で30000Pぐらいになったので、多めにと思って35000Pを封筒に入れて出ようとしたとき、玄関から人が入ってきた。「バスに乗りたいので早く出たい。」と言うと、「バスはさっき2人を乗せて出た。」と言うではないか。そんなあほな!どうしても今日出たい。サラマンカへ行きたい。」と言っていると、やっとフロントの中から反応があって女性が現れた。ぼくらの窮状を察したこの女性は「わたしたちサラマンカに行くから乗せてあげる。」と助け舟をだしてくれた。そこでやっと落ち着いて支払いに掛かった。四泊7食プラス3朝食、しめて29600Pだった。ぼくのはじき出したのとほほ近い額だ。円を1.25倍と考えて37000円。よい目をさせてもらった割りには少なくて済んだ。
表へ出ると、アルベルカは雨だった。何とも印象的な出発だ。いつもは遥か彼方まで見渡せた山々も、低くたれこめた雲ですっぽり包まれている。ホテルの従業員のカップルに乗せてもらって村を後にする。景色を眺めていると、ここは本当に信州かどこかのように親しみが持てた。緑豊かで水のおいしいところだった。山の木々も種類が豊富で、栗が実を付けているし、松もユーカリもポプラも、林檎・梨はもちろんなんだかよく分からない実のなる落葉樹の大木も、他のスペインにはあまり見られないものがある。それに下草が生えている。シダが茂っているから、ワラビ採りも出来そうで、豊かな水っていい。
サラマンカへの道は、ベハ-ルから入ってきたときの山間のつづれ折りとは違って、かなり開けた田舎国道だった。フィアット124は快調に飛ばす。日本の道路事情とはずいぶん違っていて、車がうんと少ないので速い。エンジンのうなりが車室にこもるのも小気味よい。これで舗装状況がもっと良ければ申し分なし、いっちょう奮発してレンタカーでも・・・と思わせるようなのだが、町へ出るともういけません。右側通行の不自然さ(?)と、慣れないので見にくい信号と、地理不案内がたたって、行きたい所へいけなくなってしまう。現にぼくらをエル・ティエンブロまで送ってくれたルイス達だって来るときもマドリを出違え、帰るときもなかなかマドリに入れなくて1時間もぐるぐる回ったと後の電話で話していたから、よほどなれないと難しいのだろう。
さて、1時間とちょっとで見覚えのあるサラマンカのローマ橋へさしかかる。あカテドラルだなどと言っているうちに国鉄駅に着いた。降りるとき「ありがとう。助かりました。少しだけどガソリン代に・・・。」と渡そうとするのだが頑として受け取ってくれない。「私らは用事で来た。」というわけ。礼だけ言ってさよならした。アルベルカの印象はまた良くなった。
転載以上
出典:oteさんの「父娘スペインを歩く」
ついでに、oteさんのブログの紹介も
スペイン旅行の記事などいろいろあります。
oteさんの記事に写真がなくて、ちょっと寂しかったので
私の撮った写真を17日と18日の境めに載せました。
oteさん父娘が当時泊まったと思われるホテルは、今はもう、
使われていなくて茨が茂り屋根も落ちて廃墟になっています。
隣に新しく建物を建てて、そちらで営業しています。
あと、今日の午後、上の2枚の写真を撮った後、村の
中心に下りて買い物をしていたら、タイムリーにロバさんが
いたので、写真撮りました。
少し前に、今年の春に、スペインの最も美しい村巡りの旅で
ミランダ・デル・カスタニャルとモガラスとラ・アルベルカを
電撃訪問した方のブログを転載しましたが、今度は、
1986年に父娘でスペイン旅行をされた方の記事です。
検索で見つけて、転載の了解を快諾いただきましたので
数回にわたる連載の、今回は第4回め、最終回です。
父娘スペインを歩く
17日(日) ラ・アルベルカ
祭も四日目を迎え人出は少し減るかと思われたが、なかなか。今日も闘牛があるからか、村の賑わいはいつもと同じだ。ぼくらは村の様子を確かめに、そして古い家の玄関を描こうと出かける。こう人出が多いと、座り込んで描くのは勇気がいる。しようがなく人ごみを離れて村の学校をスケッチする。途中に小さな教会がいい雰囲気で建っていたのだが、日向は暑いので遠慮した。
描いていると、ぼくらの学校やで・・・と子ども達が寄ってきた。子どもは正直で、疲れなくてよい。礼によって「何歳だ?」「何人兄弟だ?」などと話が始まる。広場に出る途中でまたあの笛と太鼓の祭囃子が聞こえてきた。あの人たちが踊っているのだろう。ここはヨーロッパなんだなあ。ハメルンの笛吹きという話だったか、笛が鳴り出すと足が魔法仕掛けで動き出す・・・そんな話を思い出させる単調だが軽やかなステップで踊りながら行進している。掛け声もカスタネットも相変わらずだ。
こちらの体調も気分も今や全くエスパニョ-ルで、1時ごろになるとお昼にしたくなってホテルへ、そしてその後はシエスタ。5時ごろ起きだして、また夜にかけての馬鹿騒ぎに参加するのだ。今日もまた闘牛。昨日と同じに三頭の堵殺の儀式だったので省略。それが終わると、仮設闘牛場を壊しにかかった。宴の後の物悲しさを感じさせるのは、こちらの見る目がそうだからか、今日の天気が秋の気配を感じさせる肌寒い空気を含んでいる所為だろうか。ああ、これでこの山間の村の祭は終わり、仕事の秋を迎えるのだと妙に得心して広場を後にする。映像でなら赤トンボなり爆竹の残りかすを捉えて秋空にパンするところだ。
この広場。スペインのどこにもある名で、プラサ・マヨールと言ったが、ここをプリントしたTシャツを記念に買って帰ることにした。探し回ったのにどこにも見つけられなくて、着ている人に譲ってもらうわけにもいかず、諦めてド派手にYo・La Albercaと書いたのにする。もう一度村の中をあちこち歩き回ってみる。どの家もゼラニウムやあじさいがベランダを飾っていて美しい。たわわに実をつけたさくらんぼの木も見ていて美しかった。家々の玄関口の古そうな良さそうなのを見つけると、やっぱり描きたくなってくる。石の梁には前にも書いたが1736とか1807とかの数字やJESUS y MARIAとかINRIとかの文字が彫ってある。魅力的だが通りには大人がいっぱいで子どもに覗かれているのとは気分が違うのでスケッチはあきらめる。しかしおかしなもので、描いた後のものなら平気なのだ。今までに二度「見せてくれ。」という人がいて、一度なんかはお礼だからとバルで飲み物を奢ってもらったりした。絵が金になったのは初めてだなどと喜んだことだった。
ホテルへ戻って「いよいよ明日、出発する。バスが出るのは何時?どこから?」と確かめていたら、フロントに偶然バスの運転手がいた。彼は「7時45分(オッチョメノスクアルト)。」と教えてくれてから、「部屋は何号だ?」なんて聞いてくれるので「205だ。」なんて答えてほっと一息。このところの生活からして、朝の早いのだけは不安材料だった。
最後の夕食を奮発して食べた後、風呂に入りゆっくりする。毎日たっぷりお湯が使えるのもぼくの旅としては贅沢なのだが、貧乏旅行ではMが疲れてしまうのでこれで行く。本当は二泊のつもりで来たアルベルカだったけれど、闘牛が見たくて三泊、それで出発しようとしたら、「あなた、明日は日曜日でバスなんかありませんよ。普段でさえ一日一本だけなんです。」と出られなくなって四泊。なんちゅうとこや!そのバスも7時45分といえば、夏時間の所為で夜明け前なのだ。もうすっかりアルベルカーノになってしまって仲良くなったフェルナンドたちとはよく会うし、その度に「オラ、ケタル?」と挨拶するようになって、これはこれでおもしろい経験だった。
アルコールの怖いぼくのことだ。「ビバ、ビーノ!」とは言えないが「ビバ、アルベルカ!」は大声で言っておこう。
18日(月) ラ・アルベルカ-カセレス
目覚ましを一時間前にかけて寝たのに、15分もピーピーピーの中で、どうしても自分の手で止められない目覚ましの夢を見ながら寝ていて、目覚めると7時だった。慌てて顔を洗い、出発の準備をする。7時20分フロントへ行くと暗がりで誰もいない。しまった。夕べのうちに支払っておくべきだったと反省したが、いたしかたない自分で宿代をだいたいのところではじき出す。ざっとした勘定で30000Pぐらいになったので、多めにと思って35000Pを封筒に入れて出ようとしたとき、玄関から人が入ってきた。「バスに乗りたいので早く出たい。」と言うと、「バスはさっき2人を乗せて出た。」と言うではないか。そんなあほな!どうしても今日出たい。サラマンカへ行きたい。」と言っていると、やっとフロントの中から反応があって女性が現れた。ぼくらの窮状を察したこの女性は「わたしたちサラマンカに行くから乗せてあげる。」と助け舟をだしてくれた。そこでやっと落ち着いて支払いに掛かった。四泊7食プラス3朝食、しめて29600Pだった。ぼくのはじき出したのとほほ近い額だ。円を1.25倍と考えて37000円。よい目をさせてもらった割りには少なくて済んだ。
表へ出ると、アルベルカは雨だった。何とも印象的な出発だ。いつもは遥か彼方まで見渡せた山々も、低くたれこめた雲ですっぽり包まれている。ホテルの従業員のカップルに乗せてもらって村を後にする。景色を眺めていると、ここは本当に信州かどこかのように親しみが持てた。緑豊かで水のおいしいところだった。山の木々も種類が豊富で、栗が実を付けているし、松もユーカリもポプラも、林檎・梨はもちろんなんだかよく分からない実のなる落葉樹の大木も、他のスペインにはあまり見られないものがある。それに下草が生えている。シダが茂っているから、ワラビ採りも出来そうで、豊かな水っていい。
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さて、1時間とちょっとで見覚えのあるサラマンカのローマ橋へさしかかる。あカテドラルだなどと言っているうちに国鉄駅に着いた。降りるとき「ありがとう。助かりました。少しだけどガソリン代に・・・。」と渡そうとするのだが頑として受け取ってくれない。「私らは用事で来た。」というわけ。礼だけ言ってさよならした。アルベルカの印象はまた良くなった。
転載以上
出典:oteさんの「父娘スペインを歩く」
ついでに、oteさんのブログの紹介も
スペイン旅行の記事などいろいろあります。
oteさんの記事に写真がなくて、ちょっと寂しかったので
私の撮った写真を17日と18日の境めに載せました。
oteさん父娘が当時泊まったと思われるホテルは、今はもう、
使われていなくて茨が茂り屋根も落ちて廃墟になっています。
隣に新しく建物を建てて、そちらで営業しています。
あと、今日の午後、上の2枚の写真を撮った後、村の
中心に下りて買い物をしていたら、タイムリーにロバさんが
いたので、写真撮りました。
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lunes, 11 de septiembre de 2017
父娘スペインを歩く~その3~1986年の夏にラ・アルベルカ滞在した方の旅行記
oteさんのサイトからです、その1、その2の続きです。
少し前に、今年の春に、スペインの最も美しい村巡りの旅で
ミランダ・デル・カスタニャルとモガラスとラ・アルベルカを
電撃訪問した方のブログを転載しましたが、今度は、
1986年に父娘でスペイン旅行をされた方の記事です。
検索で見つけて、転載の了解を快諾いただきましたので
数回にわたる連載の、今回は第3回めです。
父娘スペインを歩く
16日(土) ラ・アルベルカ
遅い朝食を、今日は何があるのだろうと話しながら、ホテルのレストランで食べる。6時から闘牛がある。それを見るために滞在を一日延ばしたのだ。その他は何があるのだろうと役場で写してきた時間表を見るが、よく分からない。もうどうでもいいや。村の散歩でもしようと決めて、また村へ出る。
一軒ずつ玄関やベランダ、ゼラニウムの咲き加減を確かめながら、スケッチの場所をさがして歩いていると広場へ出た。ここでは闘牛のための準備が進んでいた。どこかのバルの中から笛と太鼓の音、踊りのカスタネットの音もする。なにかちょっと違っている。なにかおかしいと音のする方へ誘われていくと、教会へ出た。教会の前まで来ると、小さいがまた一つ舞台が設えてあって、ここのは幕の用意までしてある。ああそうだ、これも天本さんの本で読んだ。劇だ劇が始まるのだ。舞台の前で待っていると、次第に見物人が増えて人々でひしめくようになって、劇が始まった。
牧人が出てきて村人が出てくる。やりとりがあってそのうちに場面が変わり、黒ずくめの衣装で悪魔が出てきて村人たちを脅かす。舞台は悪魔の世界になって七人のかわいい小悪魔も出てきてのし歩き観客を威嚇する。悪魔が呪いの長いセリフを言っていると、賛美歌のような唄が遠く切れ切れに聞こえてきて、彼の怒りは頂点に達し舞台にセットされた火薬に点火。物凄い大音響と黒煙で舞台も悪魔も何もかも見えなくなるし、観客は耳をつんざく爆音と煙から逃げ惑う。その後マリア(だと思う)が七人のかわいい天使を伴って現われ、剣をとると悪魔はやっつけられて退散、劇は終わる。多分いつも通りの定型劇なんだろうけど、みんなはその「いつも」を楽しんでいる。
爆発音の所為で、変になった耳のまま、「なんて馬鹿馬鹿しい劇やろ。せやけど、この馬鹿馬鹿しさが面白い。」と2人で喜び合った。
広場へ取って返すと、カスタネットの音。何だろうと思っていると、昨夜のプロの踊り手たちと伴奏者が、今日は地べたをステージにしてやっている。一踊りするとまた踊りながら道を行き、少し広くなっているところに止まってそこでまた一踊りという具合に村の中を練り歩く。村人はビーノだハムだお菓子だと振る舞う。一息入れるとまた踊りながら跳ねながら移動する。何とも凄い、身体がバネで出来ているかのような人たちだ。子どもたちと一緒にぼくらもついて行く。
小さな村の「聖母被昇天祭(アスンシオン)」の興奮は、こうして闘牛の頃には最高潮に達するのだ。ここの祭は長期に渡るが昼食の2時ごろから6時ころまで重要な行事はない。多分スペインの祭はみんなこうなんだろう。昼寝のためである。当然ぼくらも昼食とシエスタにホテルへ帰る。
las bailaoras, y toro a la plaza mayor
6時ごろ広場に出かけると、丸太と鉄の杭で締め切られた広場は即席の闘牛場になっていて、既にみんな思い思いの所に陣取っている。日が当たって暑い舞台の上もいっぱいの人だし、広場に面した窓もバルコニーももぐりこむ余地のないほど人でひしめいている。日向で、マドリの大闘牛場でなら一番安そうなところにぼくらも場所をとる。そこしか空いていないのだからしようがない。闘牛場といっても俄作りで、広場を囲む家々の二階のベランダを支えている柱に縄をかけたり、敷石をめくって柵用の柱を立てたりして作ってある。毎年のこととあって手馴れていて、頑丈にできているのは相手が猛牛だからだろう。
ぼくらの待機しているすぐ横の扉が開けられて、牛が飛び出してきた。牛は小ぶりだった。闘牛の始まりだ。ここの闘牛はマドリなどの大闘牛場とは様子が違っている。場内には血の気の多い男たちがたくさん入ったままなので、定まった手順を踏むわけではない。初めっから混乱していて、参加するのが楽しみらしいのだ。男たちが牛をからかったりかわしたり、スリルを楽しんでいる。牛が小さいということもあるだろうが、誰もがみんな牛と面と向かっている間だけはこの場の主役なのだ。赤やピンクの布(ムレ-タ)を持った者もいるのだが、闘牛の作法に沿っているわけではなく勝手に持ち込んでいるらしい。
見物席は今やぱんぱんに膨らんでものすごい人だ。ぼくらは人にもまれているうちに中の様子が見えなくなったので、場所を移すことにする。大人しくしていたのでは主役になれない国なのだ。ここでは自分を主張しよう。ぐるっと回って反対側に行くと、日陰の席に僅かの隙間を見つけて突き進み石のベンチの上に立つことが出来た。おお前の人の肩越しに見えた見えた。牛の背中にはもう銛が刺さっていた。マドリでならピカドールだバンディリェーリョだと、マタドールの前にも着飾った人たちが牛と一対一の勝負をするのだが、」なにせそこは田舎の闘牛だ。呼ばれているマタドールは1人しかいないので、村の若い衆が斜め後ろからさっと近寄って一本の銛を打つ。牛は大暴れをしてまた追っかけっこが忙しくなる。逃げ場を失った男たちが逃げ込む所は柵の外なのだが、逃げる時用の綱がいくつも吊革のようにぶら下がっていて、みんなそれに殺到する。内側にぐるっとひと巻きにした人たちが、わっとよじ登るやらロープにつかまるやらするのは滑稽で、外で見ている分には面白い。勢い余って外側に折り重なって落ちてきたりもするかと思えば、牛があまり動かないと見れば外から蹴ったり小突いたりして挑発する。ああかわいそう・・・と思うのはこのたくさんの人たちの中でぼくたちだけだろうか。大人も子どもも男も女も、今日は一つのカタルシスにむかって駆け上っていく感じがする。
そうして牛との追っかけっこが続いて、マタドール(一応ピンクのムレ-タと刺殺用の剣を持っている)が牛と対峙してフィナーレを迎える。みんなが口笛と歓声ではやし立てる中で儀式が進む。一刺しで牛を殺すのは余程手馴れていても難しいらしく、このときも何度かの失敗の末に1mほどの剣が肩から腹に向かって突き立てられた。・・・が、居合わせた全ての観衆の視線の中で牛はまだ立っていた。命が消えようとする最後の瞬間に牛の瞳は何を見ていたのだろう。雄雄しい牛は前脚からゆっくり崩れていった。
二頭目は、更に小さめの牛が場内に駆け込んできて始まった。これにはたくさんの男たちばかりでなく活きのいい少年たちも混じっていて、牛との追っかけっこを楽しむのだった。真剣に逃げる、かわすを繰り広げる。小さくても角は鋭いし、引っ掛けられでもしたら、怪我ぐらいでは済まないだろう。この牛は追っかけっこが終わると、後ろから角と首筋に抱き付いてみんなして押さえ込み、堵殺の要領で殺した。
さて三頭目は本格的に大物で、こればかりは追っかけっこに参加する男たちも少し減った。減りはしたが牛の動きが読め自分の運動神経に自信のある男たちは参加する。そして同じように銛を幾本か打ち込んでから、マタドールが一対一で最後の儀式をする。これで三頭が殺され、広場の水呑場で洗われてどこかに連れ去られると本日のイベントは終わりだ。
殺された牛たちは台車に無造作に重ねて積まれ、そこに子どもたちが群がり乗り込んだ。トラクターがそれをひいて行く。牛からはまだ血が流れている。その中の誰かが牛の血を自分の頬になすり付け、何か叫んでいる。点々としたたり落ちている血のように生々しい死を死んでいく牛に何の感傷も持たず、さながら凱旋将軍のように意気揚揚と進む彼らは一体どんな神経の持ち主なんだろう。
闘牛が終わると、同じ広場でまた踊りだ。マドゥルガーダ、アルベルカ-ナ、そして11時からはお定まりH-70の出番で広場はディスコティカになる。ぼくらも今夜は幾分興奮気味でステップを踏んだり、滅茶苦茶ダンスをしたりしてみたが12時。カボチャになって帰る。
転載以上
出典:oteさんの「父娘スペインを歩く」
ついでに、oteさんのブログの紹介も
スペイン旅行の記事などいろいろあります。
村のマヨール広場に2日間だけ出現する闘牛場。
初めて見たときは、わたしもびっくりでした。
観客も闘牛場内に入って、ちゃちゃ入れたりするですから。
小さな村だからこそ、の闘牛だな、と思いました。
参考記事
◆8/16・17午後6時 闘牛
◆8/17 子供用牛追い
◆8/16 牛追いと闘牛
シエラ・デ・フランシアの村の中には、常設の
闘牛場がある村もいくつかあります。
サン・マルティン・デル・カスタニャル、セケロス。
ミランダ・デル・カスタニャルなど。
∞ ∞ ∞
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domingo, 10 de septiembre de 2017
父娘スペインを歩く~その2~1986年の夏にラ・アルベルカ滞在した方の旅行記
少し前に、今年の春に、スペインの最も美しい村巡りの旅で
ミランダ・デル・カスタニャルとモガラスとラ・アルベルカを
電撃訪問した方のブログを転載しましたが、今度は、
1986年に父娘でスペイン旅行をされた方の記事です。
検索で見つけて、転載の了解を快諾いただきましたので
数回にわたる連載の、今回は第2回めです。
oteさんのサイトからです、その1の続きです。
父娘スペインを歩く
15日(金) ラ・アルベルカ
今日はカメラもカセットも使わない日と決めて、自分の目と耳で祭を脳髄にプリントすることにする。朝食をとってゆっくりテラスで一休み。昨夜のホテルでの夕食といい、今の朝食といい、ウエイターにサービスされていい気分になっている。この小さな村に一つしかないホテルだから、えらい金持ちごっこをしているような気になる。他にはフォンダやペンション等の安宿があるだけだから、二つ星でもここの客は少しとりすました感じを受けるのだ。
時間表によると、今日はミサがある。村の教会へみんなが集まって、ミサが始まった。いつもにない旗の行列などが珍しい。立って見ていると、すぐ前のおばさんに席を作ってもらって座ることが出来た。ミサの後、旗や聖像などがしずしずと担ぎ出され広場の上座に据え付けられると、パンやビーノを供える行事、アルベルカーナという踊りを奉納する行事と祭礼が進行する。輪になったり、二列になったり、隊形を変えながら踊る。手には棒やカスタネットで、みな精一杯着飾った民族衣装だ。この後、子どもたちの踊りは同じような衣装で、花のアーチをくぐったり回ったり、何色かのテープを持ってメイポールの周りで踊るメーデーのダンスのようだった。(これは絵葉書になっていた。)
村の中を歩いていると、そこらじゅうでカメラやビデオを持った観光客が通っているのに出会う。だいたい30分もあれば隅から隅まで歩けるような小さな村にこの人数だから、アルベルカの祭の宣伝はかなり行き届いているように見える。フランス語も飛び交う。日本人は女の子の二人組を初日に見かけたが、その後は全然見なくなった。この小さい村の行事だから、いれば何度も出くわすだろうに、もうどこかへ行ってしまったのだろう。東洋人はぼくら二人だけになった。ときおり小さな子に「チーノ。」とやられるが「ノ、ハポネセス。」と応える。
歩き回っていると見覚えのあるところへ出た。ああここは昨日豚が飛び出してきた家だ。あのときはびっくりした。中を掃除するためかどうか、とつぜん五・六頭の豚に出てこられて、道端の石の上に避難したのだ。今度はその石の上に陣取って豚の出てきた家をスケッチする。描いていると男の子が数人覗きに来た。アビラのときみたいに遠巻きに、「オラ。」と言うと、寄って来て口々に喋りだす。「それはあんたの子か?」「名前は?」「歳は?」「子どもは何人いる?」「飛行機で来たのか?」・・・いろいろ聞くので描いていられない。「そうだ。北回りでね。」・・・いちいち答えながら逆に、「君ら、名前は?大きくなったら日本に来たい?ぼくは学校で教えてる。」などと話してやる。何人兄弟か聞いてみると、4人3人は予想していたが「ひとり。」というのもいて、これは国際的な現象なのかもしれないと思った。8歳だというホセが、半分みんなにからかわれながら「こいつタバコ吸いよるねん。」と言われている。「悪い子だ!」と言ってやったら、一生懸命否定しているところがかわいい。酒も煙草もオープンな国だから、ほんとに低年齢と思える子が煙草をふかしていたりする。まるで戦後の闇市(知っているわけではありません。念のため)のように、大人に混じって仕事をする子どもの指に短くなった煙草・・・ビーノは言うに及ばずだ。
しかし今は祭。子どもたちの格好はその所為もあってか、汚くはない。みんなそれぞれの色をした髪と瞳で、Tシャツや半ズボンを素敵に着ているのをみると、洋服の長い歴史と西洋人のスマートさは日本人にはないものだと少しねたましく思った。話し終わって帰るとき、ぼくのスケッチブックにそれぞれの名前をサインしてくれた。フェルナンド、リカルド、ホセ・ガルシア・オヨス、ホセ、ヘスス・ハビエル、みんなさようなら。
7時からは民謡大会だ。唄や演奏かと思ったら、踊りだそうだ。レオンやリオハといったところから来ているプロの踊り手たちは疲れ知らずに踊る。男女が半々で10人ほどの若い集団だが、よく訓練されていて面白い。来ている服は民族衣装というよりは、それをアレンジしたステージ衣装のようだった。輪になる-固まる-二列に-繋がる-ねじれる-スクエアダンス風と様々に踊り方を変えて面白い。伴奏はたった一人のおじさんによる笛と太鼓なのだが、このおじさん、腰に太鼓をつけて片手にバチ、もう片方には笛を持っている。それにかぶさるように踊り手のカスタネットが重なると、まるで獅子舞の囃子のようにも聞こえる。この踊りは終始よく似た単調なステップなのだが、ぼくが驚くのは持続する時間の長さだった。跳びはね続けて疲れているはずなのに、表情はいつでも笑っている。溌剌として疲れを知らない踊りは、角館の「わらび座」を連想させる。
その後、ラ・アルベルカの人たちの踊りが始まると、声援も違ってきた。おじいちゃんもおばあちゃんも、おとなりの○○ちゃんも着飾って舞台に上がって踊る。踊りそのものがうまいというより、スカートに手をかけたり、足でめくるまねをしたり、卑猥な腰つきをしたりして客を沸かせている、どこの国でも見られる景色。
11時、またH-70が出てくる前にぼくらはホテルへ夕食に帰る。
ミランダ・デル・カスタニャルとモガラスとラ・アルベルカを
電撃訪問した方のブログを転載しましたが、今度は、
1986年に父娘でスペイン旅行をされた方の記事です。
検索で見つけて、転載の了解を快諾いただきましたので
数回にわたる連載の、今回は第2回めです。
父娘スペインを歩く
15日(金) ラ・アルベルカ
今日はカメラもカセットも使わない日と決めて、自分の目と耳で祭を脳髄にプリントすることにする。朝食をとってゆっくりテラスで一休み。昨夜のホテルでの夕食といい、今の朝食といい、ウエイターにサービスされていい気分になっている。この小さな村に一つしかないホテルだから、えらい金持ちごっこをしているような気になる。他にはフォンダやペンション等の安宿があるだけだから、二つ星でもここの客は少しとりすました感じを受けるのだ。
時間表によると、今日はミサがある。村の教会へみんなが集まって、ミサが始まった。いつもにない旗の行列などが珍しい。立って見ていると、すぐ前のおばさんに席を作ってもらって座ることが出来た。ミサの後、旗や聖像などがしずしずと担ぎ出され広場の上座に据え付けられると、パンやビーノを供える行事、アルベルカーナという踊りを奉納する行事と祭礼が進行する。輪になったり、二列になったり、隊形を変えながら踊る。手には棒やカスタネットで、みな精一杯着飾った民族衣装だ。この後、子どもたちの踊りは同じような衣装で、花のアーチをくぐったり回ったり、何色かのテープを持ってメイポールの周りで踊るメーデーのダンスのようだった。(これは絵葉書になっていた。)
村の中を歩いていると、そこらじゅうでカメラやビデオを持った観光客が通っているのに出会う。だいたい30分もあれば隅から隅まで歩けるような小さな村にこの人数だから、アルベルカの祭の宣伝はかなり行き届いているように見える。フランス語も飛び交う。日本人は女の子の二人組を初日に見かけたが、その後は全然見なくなった。この小さい村の行事だから、いれば何度も出くわすだろうに、もうどこかへ行ってしまったのだろう。東洋人はぼくら二人だけになった。ときおり小さな子に「チーノ。」とやられるが「ノ、ハポネセス。」と応える。
歩き回っていると見覚えのあるところへ出た。ああここは昨日豚が飛び出してきた家だ。あのときはびっくりした。中を掃除するためかどうか、とつぜん五・六頭の豚に出てこられて、道端の石の上に避難したのだ。今度はその石の上に陣取って豚の出てきた家をスケッチする。描いていると男の子が数人覗きに来た。アビラのときみたいに遠巻きに、「オラ。」と言うと、寄って来て口々に喋りだす。「それはあんたの子か?」「名前は?」「歳は?」「子どもは何人いる?」「飛行機で来たのか?」・・・いろいろ聞くので描いていられない。「そうだ。北回りでね。」・・・いちいち答えながら逆に、「君ら、名前は?大きくなったら日本に来たい?ぼくは学校で教えてる。」などと話してやる。何人兄弟か聞いてみると、4人3人は予想していたが「ひとり。」というのもいて、これは国際的な現象なのかもしれないと思った。8歳だというホセが、半分みんなにからかわれながら「こいつタバコ吸いよるねん。」と言われている。「悪い子だ!」と言ってやったら、一生懸命否定しているところがかわいい。酒も煙草もオープンな国だから、ほんとに低年齢と思える子が煙草をふかしていたりする。まるで戦後の闇市(知っているわけではありません。念のため)のように、大人に混じって仕事をする子どもの指に短くなった煙草・・・ビーノは言うに及ばずだ。
しかし今は祭。子どもたちの格好はその所為もあってか、汚くはない。みんなそれぞれの色をした髪と瞳で、Tシャツや半ズボンを素敵に着ているのをみると、洋服の長い歴史と西洋人のスマートさは日本人にはないものだと少しねたましく思った。話し終わって帰るとき、ぼくのスケッチブックにそれぞれの名前をサインしてくれた。フェルナンド、リカルド、ホセ・ガルシア・オヨス、ホセ、ヘスス・ハビエル、みんなさようなら。
7時からは民謡大会だ。唄や演奏かと思ったら、踊りだそうだ。レオンやリオハといったところから来ているプロの踊り手たちは疲れ知らずに踊る。男女が半々で10人ほどの若い集団だが、よく訓練されていて面白い。来ている服は民族衣装というよりは、それをアレンジしたステージ衣装のようだった。輪になる-固まる-二列に-繋がる-ねじれる-スクエアダンス風と様々に踊り方を変えて面白い。伴奏はたった一人のおじさんによる笛と太鼓なのだが、このおじさん、腰に太鼓をつけて片手にバチ、もう片方には笛を持っている。それにかぶさるように踊り手のカスタネットが重なると、まるで獅子舞の囃子のようにも聞こえる。この踊りは終始よく似た単調なステップなのだが、ぼくが驚くのは持続する時間の長さだった。跳びはね続けて疲れているはずなのに、表情はいつでも笑っている。溌剌として疲れを知らない踊りは、角館の「わらび座」を連想させる。
その後、ラ・アルベルカの人たちの踊りが始まると、声援も違ってきた。おじいちゃんもおばあちゃんも、おとなりの○○ちゃんも着飾って舞台に上がって踊る。踊りそのものがうまいというより、スカートに手をかけたり、足でめくるまねをしたり、卑猥な腰つきをしたりして客を沸かせている、どこの国でも見られる景色。
11時、またH-70が出てくる前にぼくらはホテルへ夕食に帰る。
写真を撮らない、記憶に焼き付けるということで、
当時の写真がないのが残念ですけれど、お祭りの
雰囲気とか、なんとなく目の前に浮かんできます。
参考記事
家族がいたんですね。。。
今は、数件、ロバや牛を1階で飼っているのを知っていますが、
イベリコ豚は村の中の家ではなく外側の栗の林の中の数ヶ所で、
放し飼いをしています。
羊、山羊、馬、にわとり、ガチョウ、孔雀なども飼われて
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